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阿弥陀さまの本願は、迷える凡夫の衆生を救い取る大いなる誓いです。
そのおかげによって、南無阿弥陀佛と称える我々衆生は極楽浄土へ救われるのです。 仏さまはどんな罪人でも、救いを求める者は救ってくださいます。 これは仏さまの側の問題ですから、 「どんな人が」「あんな人が」とあれこれ詮索する必要はないのです。 私たちは救われるために信心を育てる必要があります。 一度の念仏でも、仏さまは救ってくださるでしょう。 だからと言って、もう何もしないで好きに生きていってはいけないし、もったいないのです。 僕は弓道を習っていますが、 普段から稽古もしないで、的に当てよう、昇段しようという考えはダメです。 良い弓や矢を揃えればうまく当たると考えるのも甘いです。 普段からピアノの練習もしないで、良いピアノを見つけたら上手に弾けると思うのも 違います。 私たちは、救ってもらえるにふさわしい人間に少しでも成ろうとするべきです。 そうしていくうちに信心が育てられてきます。 誰も、初めから信心があるわけではありません。 仏さまと関わっていくうちに、信心が育ってくるのです。 では、その信心を育てるためには、 私たちが、日常生活の中で、「当たり前」と思っている事や、人、物を 「有り難い」「おかげさまだ」と、感謝の気持ちで受けとめることが大切です。 そして、 先ほどの何事も練習して上達するするように、 「南無阿弥陀佛・・・」のお念仏も、積み重ねが大事なのです。 これは衆生側の問題です。 回数を多く称える必要はないのですが、 称えずにはおれない・・・ 普段から、繰り返し繰り返し称えることで阿弥陀さまへの想いが育まれるのです。 南無阿弥陀佛のお念仏は、 阿弥陀さまへ、すべてをお任せし、委ねることになります。 阿弥陀さまを生活中で意識するのです。 「仏さまは死んでから必要」と思われがちですが、 そんなことはありません。 生きていく過程の中で、南無阿弥陀仏のお念仏を通して 仏さまを意識し、 親しみを感じていくのです。 すると、 「何が有り難い?」「なんで有り難い?」 「何がおかげさま?」「誰のおかげ?」 と脳は自問自答します。 そして、 マイナスの価値しかないと思える事や、不幸や病気や災難事故にさえも、 見方を変えて、 意味を見出し、 これまた「有り難い」「おかげさまだ」と感謝できるようになってくるのです。 今ある状況、 まわりにいる人、 手元にある物、 にも価値や意味を見つけられ、 阿弥陀さまからの計らいだと受け取ることができてきます。 これが、 信心が育てられ、幸せな念仏者になれる道なのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.08.24 12:28:11
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