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河童橋の下を流れる清流の美を見ずして、
ナイヤガラの滝の壮大さを感嘆するのもよいかもしれない。 だがしかし、それは愛国心には至らない。 日本人が日本語の美を知らずして英語を話すことも可能かもしれない。 だがしかし、これは自他とも満足する人生をおくれず、ホトケつくり魂入れずに通じる。 寛容の精神を最も発揮する人は、自分の信じるところを堅固に守る人でもある。 内に不動のものをもっている人であるが故に、他を認めることができる。 もし内に信じるものをもたない人が他を認めるとなると、ますます自己破壊を招き 自己嫌悪に落ちる。いわゆる八方美人となり、 一時的に好かれてもすぐに正体がバレてしまい 自他ともに求める不満足人間となる。 風にもてあそばれる秋の枯葉、犬の遠吠え、 自分の恥じのあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星となる。 「柔和なる者、地を受け継ぐ」とはイエス山上の垂訓の一つ。 政治を司る人の最も必要な資質の言えるであろう。 寛容は柔和の兄弟、自分と異なるものをもっている人への 尊敬と評価ができる人こそ、妥協せず信じる道を歩む人となる。 エジプトの奴隷であったイスラエルの民、 約300万人ともいわれる人々を導き出したモーセは その人となり柔和なこと類を見ずと聖書は述べている。 しかし、彼の一徹ぶりは並たいていではない。 エジプトの王パロへ妥協なき戦いを挑んでいる。 その要求は彼の内にある神への信仰、信頼、そして正義に 誰ひとり指を触れることはできなかった。 「神はお前だけに語られたのか!」と反旗を翻した仲間に神罰が下ったとき、 モーセは神にとりなしの祈りをしている。 その柔和なこと目を見張る。 それはやはり自分の内に確かな信じるに足るものをもっていたからに他ならない。 大都会の町を夜の9時に少女が塾から家にひとり歩いて帰る。 これは日本以外の先進国の大都会では常識ではない。 日本に在るものがどれだけ神の恵みを受けているかを知らずして、 外国のものに憧れている者の中にさまよう青い鳥症候群を見る。 チルチルミチルとならぬよう日本国民は今一度、 自分に与えられた精神的めぐみを見つめようではないか。 自虐的ものの見方をする人が決して知識人でも教養ある人でもなく、 ましては寛容な人であるはずがない。 常に感謝する人こそ寛容で柔和な人であり、 他を受け入れ認める。それは自分を尊び愛しているからだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年07月10日 08時06分09秒
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