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ふたつのタイプがある。
第1に、見ることができない人。第2に、見ようとしない人に分かれる。 宗教家がイエスに教えられた。 「だれでも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない。」 するとその宗教家は、だれがもう一度母の胎内に入って生まれ出ることができようか? と反論した。 この宗教家は、霊的盲目であった。 神の国を見ることができなかった。 神の国とはこの世のものではなくこの物質的な現世的かつ金銭的に価値判断する国のことであり、霊的とは肉眼では見えないことであり、 永遠の世界である。また永遠に価値が変わらない世界のことである。 霊的盲目とはこの世界のことがまったく見えないこと、 わからないことを指す。 生まれつきの人には、まったく愚かであり、 まったくわからないことなのである。 この世については、判断したり、批評したり、 意見を述べたりすることができるのは、 この世についての知識や勉強や体験を通してわかっているから、できることなのである。 この世については見ることができるが、 霊的には盲目であるとその時代の教師、 世にあって重んじられている人、 宗教家、法律家(その時代にあっては戒律の説明者、人々に先見的指導をする人たち)に イエスの「あなた方は新しく生まれなければ神の国を見ることはできないのです。」と言われた。 霊的なこととは、人々は見えないことだから見えない霊的物体 (幽霊、霊媒、普通の人が見えない心霊写真が説明を受けると そのように感じたり見えたりするもの)と考え勝ちであるが、 そんなのは霊的物体ではない。 聖書の霊的という真意は、目に見えないことがらでも、 私たちの日常生活を左右する神様のところからくる 力、気、気力とも言うべきものとして考える方がより近い説明になる。 私たちの住んでいる世界は、 霊的な世界が私たちの生きている物質的世界を動かしている。 ひとつは光の世界であり、もうひとつはやみの世界である。 やみの世界の力である気と呼ばれ手いるとするのが一番ちかいであろうが、 それはそこかしこで働いて、 それに心も魂もゆだねて負けてしまった人間の行為が、 目に見えて新聞、TVを飾っているのは、だれに目にも明らかである。 それと同じように、光の霊的眼力のある人たちが味わっている生活は、 家庭の和やかさ、平安、やすらぎ、親睦、だんらん、 思いやり、親切、善行への励まし、 不正を憎むこころ、譴責、責め、警告、 忠告、意見交換、寛容と柔和という実によって表されている。 神の国を見ることは、実際霊的なことであり、 一般的に言われている霊的ということばの持つ意味合いとは、はなはだしく違う。 やみ(闇)からもたらされる実を食べている者は次のような人である。 「不品行な者、偶像礼拝する者、姦淫をする者、 男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、 酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、 神の国を相続することはできない。」と聖書は言う。(第一コリント6章9,10節) 肉眼がちゃんと開いていて、見る力があっても見えないときがある。 それは、光がないときである。 私は、やみ夜の野原の真ん中で隣にいる人が見えなかったことがある。 真夜中、部屋の電気をつけないと、目を開いていても何も見えない。 光があるうちに目を開けてちゃんと見ないと何もできないように、 光のあるうちに光を信じて行動しないと、 神の国のすごい体験を味わうことができない。 「わたしは光として世に来ました。 わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」 イエスのことばである。 霊的盲目であることは、あまりにも失うものが多すぎる。 霊的に目が開いているということは、 周りがどんなに暗やみでも私に関するかぎり、 どのように対処したらよいかをちゃんとわかっていることなのである。 だから、次に何をしたらよいのかが明確である状態をいう。 誤解されてののしられても、ののしり返さず、 迫害されても恨まず、心配ごとがあっても落ち込まず、 不慮の事後にあっても人間万事塞翁が馬、 人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも生きており、 罰せられているようでも殺されず、 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、 貧しいようでも、多くの人を富ませ、 何も持たないようでも、すべてを持っている。これを霊的人生という。 明日は、第2の「見ようとしない霊的盲目」について 写真:実りの秋。はさかけは案外重労働であったが、来年は2度目になるので案外らくになるとのこと。右すぐ上のところにヤーコンが成長している。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年09月04日 09時30分21秒
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