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Dec 16, 2009
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カテゴリ:フリー
今日は、マイギターヒーローについて・・つらつらと!♪

竹田和夫。かつて彼より刺激的なギターを弾く人間が居ただろうか。
幼い頃ヴァイオリン弾きの顎に出来た痣を目撃してミュージシャンになることを決意、以後日本のバンドシーンの黎明期から関わり一番活動期間の長かったクリエイションのステージは本場以上のフィーリングを持つとまで言われた。影響を受けたミュージシャンはエリック・クラプトン、レズリー・ウエストを初めとするブルーズ系ミュージシャンで体内には深く黒人ブルーズが刻まれている。
彼が最初に影響を受けたギタリストは洪栄龍氏。一緒にビッキーズというバンドをやり、ここでは主にヤードバーズをプレイしている。なおチョーキングというブルーズギターをプレイするには欠かせないテクニックがあるのだが、洪氏、日本では相当前から習得し竹田にこれを伝授したらしい。ビッキーズ解散後いよいよ竹田のグループとして活躍する訳だが最初のグループがブルース・クリエイション(洪氏はブルーズバンド、ブラインド・レモン・ジェファーソンを経た後伝説の日本語ロックバンド乱魔堂で活躍する)。従来のブルーズに当時の刺激的なイギリスの白人ブルーズの新鮮味を加えたプレイをしていた彼等であるが、'72年に竹田が渡英、本場の空気を吸ってプレイに磨きがかかる。更にオールマン・ブラザースやハンブル・パイ、ウイッシュボーン・アッシュ等の影響でツイン・リードにすべく飯島義明を迎えバンド名もクリエイションとする。ここで火の出るようなギターバトルが繰り広げられたのである。
そもそも竹田の真骨頂は何か。コンサートの始まりを前にしてざわめく会場。竹田がレスポールを手にし弾きはじめる。情け容赦ない音量と圧倒的なテクニックで聞き手を金縛りにする。瞬間に会場の空気が変わってしまうのである。ある人は股ぐらをすり抜けていくようだと言ったが、それはレズリー・ウエスト以来、伝統の持ち味であり真にブルーズを己の物にし、かつ体内に危険な爆弾を持つ者だけが出来得る芸当で。ステージでこれが出来る人間はレズリー・ウエスト、竹田和夫の他ブラック・サバスのトニー・アイオミ辺りを挙げておこう。
1975年は日本ロック史でもエポック・メイキングとなった年であった。内田裕也が日本のミュージシャンも最早海外のミュージシャンと同等の力を持つと確信した結果のコンサートを開催したからである。ジェフ・ベック、ニューヨーク・ドールズといった当時の売れっ子ミュージシャンの他、フェリックス・パッパラルディも来日。竹田とパッパラルディを核としたワールド・ロック・フェスティバル・バンドはコンサート最大の呼び物となり「ナンタケット・スレイライド」ではパッパラルディのヴォーカルに加え本来硬派であるレズリー・ウエストとは対称的な咆吼する正に泣きまくる竹田のギターが聞けたのである。「ナンタケ」ではもしも最盛期のクラプトンがレズリーの替わりに弾いたらかくやというコンセプト風で竹田和夫渾身のソロであった。これがきっかけとなりクリエイションにパッパラルディを加えた形で渡米、レコーディングも果たしている。
帰国後も活躍し人気もトップとなる。この頃台頭したのがフュージョンで彼もジャズに走る。しかし根幹はロッカーであることを示すべく固定したメンバー(元カーナビーツ、アイ高野等)を加え新生クリエイションのスタートを切る。竹田の作曲による「ロンリー・ハート」は全国的なヒットとなった。何枚か優れた作品を残しクリエイションの幕を閉じる。
'90年に入り新たなグループ、ボーイズ・オン・ロックスを結成する。極めてソウルフルな女性ヴォーカル、橋本ヨーコを得てステージでは従来のブルーズロックに加えゴスペルタッチのロックも披露。ここでは3枚CDを出したがあまりコンサートの機会はなかった模様。
その後の現在、残念ながら日本での活動に見切りをつけアメリカでの新たな活躍を待たれる竹田であるが絶えず聞き手を興奮させる、魂の迸るプレイを再び我々の目の前に現してくれる事を願ってやまない。  (執筆-笹だんご氏)


「竹田和夫はこれの独壇場で一人でぶらりと現れていきなりぐわああっと弾き倒して皆をノックアウトする事が得意でした」

 偉いのはクラプトンからのコピーだけでなく、クラプトンが入れ込んだ昔のブルースマンたちの直接の音をしっかりと聞いていましたね。ここが平凡なクラプトンフォロワーと違うところです。
クリエイション時代のライブではもう一人のギタリスト飯島とツイン・リードやギターバトルのようなパフォーマンスを決めていたのですが、レコードでは決してそれが成功しているとは言えないのが残念です。「クリエイションはライヴアルバムを出すべきだった」という発言がファンからよく聞かれる。決定的なライブ・アルバムがないのは本当に悔やまれるところです。スタジオの限界が致し方ないにせよ、彼らの本質はライブでしか味わえない。ちょっとしか聞いてない私でもライブとスタジオではぜーんぜん迫力が違うんです。ニールヤングみたいに全曲新曲ライブっていうのも面白かったかもしれない。プロデュースについては、当時としてはあれが精いっぱいだったのかも。
この当時のことはよく覚えてますが、残念ながらライブは見た事無いんです。「クリエイシヨン・ウィズ・パパラルディ」ではまさに「クリームアンドマウンテン!!」ですね。ただ、ギターに関しては本来のパワーを伝えきれてなかった。この時期、NHK-FMでアメリカ帰りのクリエーションがスタジオライブをやってて、断然こちらの方がパワフルでした。アメリカから返って来た竹田和夫は地元のミュージシャンから50年代の改造レスポールを格安で手に入れてチェンジしてました。こちらの方が音が太くて伸びも良かったようです。やっぱし似合うのはレスポール。
しかし、ファンキー路線も目立ってて、「あれ?ハードロック一本じゃないのか」なんて思ってたら、案の定パパラルディと決別してたということで、パパラルディのバックバンド的存在が気に入らなかったのでしょうか。
パパラルディ クリエイション クリエイション
この辺の話は当事者が口をつぐんだままですので、どこまでも想像の範囲でしか言えないのですが、恐らくパパラルデイは「おまえだけアメリカに残れ、後の面倒は俺が責任持ってみるから。一緒にグループを組もう」とか言ったのだと思います。想像ですけど。
夢のようなアメリカでの成功をとるか、メンバーの信頼と絆をとるか、悩んだ末にみんなと一緒に日本に帰ってきたのでした。もちろんクリーム・マウンテンもどきに自分が縛られるのもいやだったかもしれません。パパラルディが竹田和夫に自分の夢を託したのも分かるんですが、ほんとのところは当事者しかわかんないんでしょう。
クリエーションの人気は決して悪くないどころか、大受けの最中でどうして最後は方向性が変わってしまったのか。一説ではもうハードロックに飽き飽きしてたんじゃというのがある。もともとクリエイションのレパートリーは70年代前半に演っていたもので、クリエイションのファーストが出た時は曲の旬はとうに過ぎていて嫌々レコーディングしたそう。
確かにあの時代(75年)に出したアルバム(ファースト)にしては音の感覚は古いものでしたね。これはプロデュースの問題かもしれませんが。曲の題材も一昔前のものですし。70年代中期と言えばハードロックって主流じゃなかったし。
だから、帰国後に出したサード、「ピュア・エレクトリック・ソウル」はそういう音楽的変化の過渡期のアルバムと言えます。この中での目玉、「トーキョー・サリー」はジェフ・ベック的ファンキーさとモントローズぽさにソウル的感覚を織り込んだ秀作でした。
竹田和夫が70年代初期のハードロック時代に注目していたのはクラプトンは当然として、ベック、リッチーにも目を付けてましたし、ミック・エイブラハムス(元ジェスロ・タル)にもけっこう傾倒してました。ミックのブルース・ジャズ・ロックンロール・C&Wを混ぜ合わせたようなフィーリングが気になっていたんでしょう。しかし、後の竹田がファンキー/ジャズ路線に行ったのは案外ジェフ・ベックの動向に注目していたんじゃないかという気がします。
竹田の変化し、成長するスタイル、よくわかります。ある意味では今のクラプトンを超えた部分もあるんじゃないでしょうか。この様な自己探求のアーチストは持ち場がないのかもしれません。でも今も竹田はロックしていると言いきってしまいましょう。
教則テープ ブルクリ クリエイション
当時グレコのギター買うと成毛 滋のロック・ギターの解説テープと小冊子がついてきて、みんなこれで音作りの基本を学んだものですが、その後に竹田和夫バージョンも出ましたね。これは竹田和夫がハードロック路線からジャズ・ファンキー・ブルース混合のクロスオーバー路線にかわっていた時期に作られたテープですから、いまいちわたしにとってはつまらなかった記憶があります。全体的にスマートすぎて成毛さんの泥臭さに比べるとちょっと肩透かしという感じです。まあそれはそれとしてためにはなりますが。

竹田和夫はクラプトンのハード要素を継承する一番手だったかも。「スピニングトーホールド」が売れたのがだめだったかなあ。
・・・・懐かしくも、永遠のギターヒーローなのでした。
オールスターズ・・思い入れが・・泣き笑い






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Last updated  Dec 17, 2009 12:19:10 AM
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