30年~私の建築ノオト~
早くも梅雨明けです。一気に暑さがやってきました。報道では節電を呼び掛けています。でも熱中症には気をつけよと。矛盾していますよね。先ずは自分を家族を守る適切な温度を保ってください。日本人は古来より「我慢」に美徳を持っています。朝の連続TVドラマのおしんが大人気だったのもヒロインの我慢に共感が起こったからに違いありません。確かに我慢は必要です。私もこの歳になって始めた空手で通っている道場には扇風機しかありません。10分動けば、体中の水分が排出された感覚になります。その暑さに耐えながら稽古をするのが強くなるために一歩ですから、これは必要な我慢です。でも普段の暮らしで、環境への我慢は絶対にいけません。そもそも家とは我慢するために存在するのではなく、心地よく暮らすためのものです。そして心地よく快適に過ごすためには温度調節は欠かせません。よく聞く無断房などと言うものはありえません。熱源がなければ暖かくなる道理がない。冷房も一緒ですので、とにかく積極的に温度調節を。守るべき一義は命です。と、表題より脱線してしまいました(-_-;)この歳で空手を始めた!なんてカッコよく装飾してますが、私も妻もまさに今年で54歳です。人生の折り返しをとっくに過ぎて感じることは、健康の大切さです。健康であることが、老いを遅めそして思考の衰えを防止してくれます。いつも快活に明るく生きられるように。まさに本当のストイックさを推進していきたいと思います。そして30年。これは私が建築と言う業種を生業にした年月です。まさに24歳の時にこの業界に身を投じました。でも裸一貫からはじめた訳ではなく、親父が興した会社の後継ぎとして身を投じたのであって、深い思いや思想ビジョンがあった訳ではありません。ただ親の事業の後を継ぐという、何ら変哲のないものでした。世間で後継ぎというと決意みたいなものがあってというのがリアルであると思いますが、私は全くありませんでした。まさに情けない後継ぎです。でもこれはただの運なのかも知れませんが、何で親がそんなことを言ったのか全く不明なのですが。中学生の時に何となくその先の進路を家業を継ぐという思いが浮かんできた時に、普通高校に行けと言われました。それまでは工業高校に行って、早めに専門知識を持った方が良いとおぼろげながら感じていました。でも普通高に行けと。もともとは怠けの遊び気質ですから、じゃその方が楽しそうでいいや!となり、そこに標準を定めて勉強を開始して入学をしたのです。地域の進学校で速攻で落ちこぼれて、何一つ楽しい思い出がなかったのです。男子校だったので、共学が良かったとかもっと楽な高校がよかったとか後の祭りでした。何とか卒業して大学受験を。工業大学系を受験をしましたが、入学したのは総合大学の建築学科でした。つまりそこしか合格しなかったから、選択の余地なしです(笑)当時の建築科は女子があまりなくて、でもここでは落ちこぼれの楽しい仲間ができて、学業そっちのけで遊んでました。理系で遊ぶ。もはや致命的です。留年。周囲の仲間がさっさと卒業するなか、親のすねをかじりまくって学生生活を続けていました。そしてそこでも親からのアドバイスがありました。家業を継ぐなら設計を学べと。強い意志などあろう筈がない、23歳のにろす君は言うがまま、大学の先輩の紹介である設計事務所に入社しました。そこで三年いわゆる修行をして、家に戻ってきました。9年ぶりに戻ってきた地元は何もかも新鮮で、でもいつか惰性になってしまう悪い癖が出てきて。あの頃は何もかもが嫌になった時期でした。自分の実力のなさを棚に上げて、でも口だけは二人前。まさに最低のボンボン後継ぎでした。でもその中で光る宝石は存在していました。自分なりの仕事をして評価をされる喜びを感じることができたのです。それはとても小さいものでしたが、間違いなく貴重なものでした。実は都内の設計事務所に勤めている時に、そんな体験をしていたのです。クライアントさんからお食事をご馳走になったり感謝されたり。建築って実はそんな業種なんだなぁという事に気が付いて。もちろん親とは意見が合うはずもありませんし迎合する気もなかったです。超仲が悪い親子でしたから(笑)そこからは、先ずはしっかり建築を0から学び直そう!と心機一転、29歳から6年続けて国家資格を取得したのです。そして親と大ゲンカして、社を解散してそして妻と二人になって、まさに0から理念をつくりビジョンをつくり、そして今に至ると言う30年でした。そしてふり返って思うのは、親のアドバイスがまさに適格だったんだなぁということです。あそこで普通高に行かなかったら、小さい設計事務所の行かなかったら。とIFを仮定すると、それがなかったら今の自分はなかったと思うのです。工業高校に行って早めに専門知識を得れば、もっと早く独立独歩で歩けたに違いないとは確かに思います。でも建築業に入る前に、今では全く使用することのない一般勉強をできたことに価値があったんだと思います。それが総合大学の建築科に入学することにつながり、建築を学ぶというそれは当時は軽い志ではあったのですが、それを同じくする普通高校から進学した仲間がたくさんできて、それは今でも輝く宝物になっていて。そして小さい設計事務所では、まさに経営をするという切実な問題を体験できたことがその後の人生に大きなものを残してくれました。建築業に携わるなら建築をやるのが当たり前です。でもその前に世間を知ると言う大きなゲートを潜ることができたのはまさに親のおかげだと今では思っています。自分の自分だけの建築を志ことができたのはそれらの体験のおかげであったに違いないのです。資格を取得したあとに出会った方々は今でも恩師であり、本当の建築を今でも教えてもらっています。でもそうなったのは純粋な建築とは違う、まさに脇道を歩けたからこそ、今の私たちの王道が見つかったのだと感じています。あの嫌気満載だった高校生活。でも50歳で久しぶりに再会した同級生たちも同じ思いでいたのだとお互い笑い合いました。そして何よりそれぞれ業種で生きていいて、この歳になりお酒を飲みながらそんな過去の話を笑い話にしながら、今のそれぞれの立場を語り合える驚きと喜びがあります。大学の同期もまさに同じで、大手ゼネコンに行った奴、異業種に行った奴、それぞれがそれぞれの道を歩んだ中で、何かを手に入れ、再会した時に専門的なことなどではなく、まさに経験を語り合える。私の建築家いや工務店の社長としての成長はまさしくそんな存在たちのおかげなんだと思っています。だからこそ自分だけの建築の王道を見つけることができ、真摯に学べる恩師にも出会えたんだと。この30年ほぼ遠回りでした。気が付けば近道などは一切選択せずに、それはノロマで不真面目ではあるのですが、そのおかげで本業以外の貴重な経験がたくさんできたと思えるのです。そして何よりその過程の出会いの中で感謝をするという事を学んだことが私の人生の中で最大の宝となっています。半端に真面目になったり最短ルートを行かなくてよかった。それは成功しているとか失敗したとかの次元ではなく、人として豊かに生きていられるための出会いがずっと続いていることが全てを証明をしてくれています。何とも平凡かつ凸凹過ぎる30年でしたが、あらためてそれら全てが糧になっていて、そしてこれからまた自分の建築に命をかけて向き合える環境に居られることに感謝をさせていただきます。次の建築30年はどんな年月になるのだろうか。それまでの出会いを大切にしながら、新しい楽しい出会いが連発する年月になるに違いありません。そしてしっかり自分の王道つまり理念を極めたいと思います。美味しいものは美味しいという単純理論に導いてくれた味噌ラーメンにも感謝です。それはアインシュタインですら分からないと思います(笑)しかし味噌ラーメンを何杯食べたろうか...。昨日妻と食べた太田市羆の味噌ラーメン。写真は大盛でチャーシュー1枚トッピング💛名店ピリカ無き今はここが一番です。まだまだ食べてやるぜ!建築とは人である!コミュニケーションを育む住まい田村工業株式会社田村 博 青子