埼玉県熊谷市で2015年9月、子ども2人を含む6人が殺害された事件の控訴審判決が出ました。
東京高裁がペルー人の被告人に下した判決は
無期懲役。さいたま地裁の裁判員裁判で下された死刑判決を破棄しての判断でした。
私はそのニュースを聞いて唖然としました。
私は子どもを含む6人を殺害した被告人に対して怒っているのではありません。
裁判員裁判での死刑判決を破棄した東京高裁に対して怒っているのです。
一般市民が苦しんで苦しんで下した決断を、高裁がいとも簡単に覆す。高裁で裁判員裁判の判決が破棄される確率は2011年には7.8%だったのに対し、2018年には11.9%に上昇。制度の浸透やその後の最高裁判決で、市民判断を見直すことへの高裁裁判官の心理的ハードルが低くなっている可能性があるとのことです(
時事通信・2019年5月21日)。
上記の熊谷の事件での高裁判決を聞いて、私は
何のための裁判員裁判だったのか?と思ってしまいました。
そもそも裁判員裁判の目的は、
「国民の皆さんが裁判に参加することによって,国民の皆さんの視点,感覚が,裁判の内容に反映されることになります。
その結果,裁判が身近になり,国民の皆さんの司法に対する理解と信頼が深まることが期待されています。
そして,国民の皆さんが,自分を取り巻く社会について考えることにつながり,より良い社会への第一歩となることが期待されています。」
(
法務省ホームページより)
つまり、重大な刑事事件に一般市民の感覚を取り入れることが最大の目的のはずです。
それなのに、
「一般市民が参加して下した死刑判決を尊重する気はありません」と上級審(高裁、最高裁)がいうのであれば、裁判員制度なんて必要ないのではと考えてしまいました。
いっそのこと・・・。
・重大な刑事事件は高裁から審理スタートとする。
あるいは、
・高裁、最高裁でも裁判員裁判を導入する。
という
過激な改革をしなければ到底理解は得られないかも、と思いました。