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職の精神史

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2008.04.25
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※この文章は、2003~2006年に大学生・若手社会人向けに配信されたメルマガ『内定への一言』のバックナンバーです。


289.『もうだめだという時、自分を超える自分が出てくるんだな』(酒井雄哉)



皆さんは日本史で「伝教大師(最澄)」について習ったことでしょう。比叡山に延暦寺を創設し、厳しい修行とたゆみない研究で、日本の仏教文化に多大な影響を与えた偉人です。

839年、最澄の遺志を継いで第三代座主に就いた慈覚大師・円仁は、遣唐使として唐に渡り、五台山(山西省)で五つの峰を回る修行に励みました。悟りを開き、慈しみを深めた円仁は、帰国後、弟子の相応和尚に修行の極意を伝授し、この相応が最澄と円仁の経験を踏まえ、比叡山独自の荒行を創始しました。これが、7年間をかけて「不動明王」と一体化するための修行「千日回峰」の始まりです。

千日回峰の行を決意した者は、未開の「蓮の葉」で作った笠をかぶり、死者の姿を表す「白装束」にぞうり姿となります。ちなみに、修行するには、12年間比叡山にこもった僧であることが前提です。そして、腰には「死出紐」と「宝剣」が。千日回峰を決意した者は、満行(まんぎょう。達成すること)まで、中断することは許されません。「紐」と「剣」は、「修行に挫折すれば、自ら首を吊るか、ノドをかき切って死ぬ覚悟」を示す決意の装備。それほどの荒行なのです。

最初の3年間は、1年のうち100日だけの修行が許され、1日のうちにアップダウンの激しい真夜中の山道を、約30Km歩きながら、255ヶ所の霊場を順に礼拝して回ります。仏像一つ一つの由来や性格も異なるため、拝み方もきちんと決められているそうです。 その後、ペースに慣れてからの2年目は1年に200日、同じ修行を行ない、5年間で700日を数えるまで、延々と深夜の山道を礼拝し続けます。

この700日の苦行に耐えた者のみが、ようやく9日間の「断食、断水、不眠、不臥の行」に入ることを許されています。この「堂入り」を通過しないことには、次の修行には進めません。ここで修行僧は、「火あぶり地獄」とも呼ばれる「十万枚大護摩供」の行に入り、不動明王と一体になるために、護摩を焚きながら、10万回の「不動真言」を唱えなければなりません。

常人は、水を断つと4日も持たないそうです。飲食を断つばかりか、睡眠や安座も許されない「堂入り」は、以下のような過酷な修行です。2日目になると唇が裂け、4日目になると手に死体のような「紫斑」が出る。5日目に、初めてうがいが許される。しかし、これはたんによる窒息を防ぐため。水分の欠乏で体は動かず、水への執念から、水を受け取った瞬間にガタガタと手が震え出す。6、7日目になると手が冷たくなっていき、幻想が見えてくる。お堂の中にいるはずのに、なぜか外にいる「自分の姿」が見えてくる。8、9日目になると、全てを超越したような気分になって、「どうなってもいい」という境地に達する…。

「堂入り」は比叡山の「不動堂」で行われますが、生きて出堂できるかは分からないので、儀式に入る前に親族や僧侶が集まり、「生き葬式」を行ってから開始されます。無念ながら、志半ばに命を落とす修行僧を出してきた、この「堂入り」に耐えると、27日間の休息が許されます。これは、「人間の傷や過ちは、その3倍の時間をかけないと修復できない」という決まりから、その期間とされているそうです。

堂入り、その後の休息を経て、「一度は死んだ人間」となった僧の修行は、6年目に突入します。年間100日というペースは変わりませんが、1日に歩く距離は60Kmと倍増、巡拝箇所は266ヶ所に増えます。7年目は、前半の100日間が1日84Km、300ヶ所の巡拝に。睡眠2時間で、夜中12時から歩き始めないと、1日のうちに終われないそうです。最後の100日間は、最初のように「1日30Km」に戻り、これで合計「千日」の修行となるわけです。歩行距離は実に4万キロ。地球1周に相当する深夜の山道を、ぞうりを履いた足で7年間、ひたすら進むのです。

概要を説明するために、修行内容や期間、決まりごとだけを淡々と並べましたが、想像するほどに、筆舌に尽くしがたい荒行の様子が伝わってきます。

この千日回峰を満行できた僧は、比叡山の1,300年の歴史の中で、47人しかいないそうです。これは「27年に一人」ということで、1世紀のうちに3、4人しかいないという計算です。この荒行に耐えた僧は「阿闍梨(あじゃり)」と呼ばれ、「生き仏」となって、衆生救済の使命に生きる高徳の僧として尊敬を集めました。命を落とした僧や、あまりの荒行に遠慮した僧の数は、その何倍にも及びます。

明治時代、回峰行の半ばで命を落としたある僧は、「私を最後に、もうこんな無茶な修行はやめてほしい」と遺言を残し、文明開化の風潮もあったことから、千日回峰は「封印」されてしまいました。

最澄の時代から残る、伝説の修行。生き仏となって崇められる阿闍梨。それはもう、歴史の中にしか残っていないのかと思っていたら…。なんと!昭和になって、史上最高齢の「54歳」でありながらこの苦行に自ら志願し、しかも、こともあろうに「2回」も千日回峰を成し遂げた「大阿闍梨」と呼ばれる方がおられるそうではありませんか…。

長くなりましたが、冒頭で触れたNHKのドキュメンタリーでは、日本仏教始まって以来3人、つまり「400年に1人」しかいないという「大阿闍梨」の酒井雄哉(ゆうさい)師の人生と修行の様子を追った番組でした。

http://www.tendai.jp/shugyou/index.html
(天台宗HP)

当時の僕は、記者の退職を考え始め、中退以来夢見てきた「独立起業」を視野に入れ、具体的な準備に着手し始めた頃でした。仕事を通じて、名もなき多くの名社長に叱られ、諭され、導かれ、「短い人生、自分のやりたいことを精一杯やって死にたい」というような、スケールが小さく卑屈な目標で生きるのは、絶対に嫌だと思い始めていた時期でした。

「自分の命は、困っている人や助けが必要な人たちのために使ってこそ、初めて価値があるのではなかろうか。やりたいことをやるだけなんて、なんと退屈で無価値な人生だろうか」と、事業内容を模索していた頃でした。

そこで見たのが、酒井師の番組。その内容のすごさに、僕は数日、何も考えられませんでした。気になって色々調べ物をしていると、なんと、三重県で講演会があるという情報を入手しました。「行かずにおれるか!」と即、三重行きを決意し、大阪で一泊して西名阪道を走り抜け、勢い余って名古屋まで行った後、三重の会場にたどり着きました。

大阿闍梨・酒井雄哉師は、当時70歳を過ぎた頃でした。若い頃に戦争に行き、大切な友達がどんどん命を落とす中、酒井師は生き残ります。終戦を迎えた九州の地で、若き酒井師は悲嘆に暮れました。戦後も友達に対する申し訳なさが心の中から消えず、「立派な友達が死に、自分のような人間が生き残るなんて、本当に許されるのだろうか」と思いながら、生活のためにラーメン店を開業しました。

しかし、そのお店も放火で焼失し、莫大な借金を背負ってしまいます。酒井師は虚無感と迷いから、職を転々とします。そこで、自分を認めてくれる女性と出会い、生きる気力を取り戻しました。でも、仕事は思うように行かず、新婚早々、堕落した生活に舞い戻ってしまいます。事件は起こりました。信じた夫が堕落した姿を見かね、「人生が終わった」と観念した奥さんが、結婚1ヶ月で自殺してしまったのです。酒井師は嘆き悲しみ、申し訳なさと悔恨のあまり、34歳を過ぎてから出家しました。その行き先が、比叡山だったのです。

戦後の仏教界といえば、宗教法人法という新しい法律で認められた「宗教法人」としての寺院のみが格式を保証され、山にこもって修行に励むのは、その大半が仏教系の大学を出た若い僧でした。酒井師は、縁もゆかりもない場所、地位から、修行僧たちの親のような年齢になって出家し、入山したわけです。そして、地道な修行生活を12年間行った後、自ら志願して「千日回峰」の行に入り、自分が迷惑をかけた人、自分を支えてくれた人、これからの人生で尽くす人々の姿を思いながら、54歳の時に荒行を成し遂げ、「阿闍梨」となりました。

この修行で煩悩は去り、執着は消えましたが、酒井師にはまだ、戦友や妻への申し訳なさを償い切れない思いがありました。そのため、なんと「自分はまだまだ阿闍梨と呼ばれるような人間ではない」と、さらに高齢となった身であるにもかかわらず、再度の「千日回峰」を志願したのです。そして見事、成し遂げました。なんという優しさ、精神力でしょうか。僕はこの事実を知った時、現代に最澄が甦ったような気がしました。

三重県のある会場で行われた講演会には、70~80代の方々ばかりが集まっていました。20代は、僕と友人だけでした。あまりの人の多さに、お姿はよく見えなかったのですが、表情と声は信じられないほど優しいものでした。そして、その内容は、おそろしく当たり前のことばかりでした。

あれから7年を経た今、僕が記憶している酒井師の言葉は、

「頼んでやらせてもらっているからには、苦しいのではなく、有り難いのです」
「もうだめだという時、自分を超える自分が出てくるんだな」

といった言葉くらいです。それでも、このようなお方から、直々の声でそういう言葉を聞けたのは、青年時代の貴重な財産となりました。

それからの起業や資金繰り、営業は、未熟な僕には苦難の連続でした。しかし、大阿闍梨の悟りの万分の一でも得たいと思い、信じた道をコツコツ進む勇気を頂きました。今でも、毎日仏壇に父を拝み、お盆とお彼岸くらいにしかお寺に行かない不信心者の僕ではありますが、自分を超えた者のために生きる気持ちだけは忘れたくないと、仕事という修行に励む日々です。

学生の皆さんも、バイトにサークル、ゼミ、旅行、レポート、就活など、色々な修行を組み合わせながら、毎日を過ごしていることでしょう。そして、その中の一つとして、「自分が同意しなかったこと」はないはずです。つまり、全ては「有り難い出来事」です。そう思うと、不思議と力が湧いてくるものです。僕は、宗教のことはよく分かりません。ただ、イスラム教の国で働いた経験があり、思想・文化関係の本を少しばかり読んだ程度です。なので、仏教についてメルマガで語ったりはしません。もし、今日の話を詳しく知りたいなら、「生き仏になった落ちこぼれ」(長尾三郎/講談社文庫)を読んでみて下さい。

子供の頃、祖母がよく「観音様のご慈悲を忘れたら駄目だよ」と言ってくれました。生前、父は「なぜ観音様と言うか、知っとるか」と僕に聞きました。そんなの、分かるわけない…。すると父は、「音は聴くものだが、観音とは音を観る(みる)と書くだろ。観音様は音が見えるんだ」と教えてくれました。

例えば、母親が乳児の泣き声を聞いて、そこに「愛情が欲しいんだ」、「さみしいんだ」、「おなかが空いているんだ」と思うのが、「観音様のご慈悲」だと、小学生の頃に教わりました。言葉にならない声を、どうして判断できるのか。それは、そこに「愛情」や「慈しみ」があるからです。

だから、普通の泣き声であっても、心を見て愛情を働かせることができるわけです。そして、これをなくせば、わが子に「うるさい!」と言う、鬼のような親になり果てるのです。「音を観る」の境地が、人間と鬼畜を分けるということです。

僕ももう30歳。父と死別して17年になります。この先、結婚や育児もあるでしょうが、今では仕事も軌道に乗り、生活に何の不満、不都合もありません。しかし、それだけでは不十分な人生です。観音様の一億分の一の愛情でも発揮できるようにと、言葉にならない若者の声に潜む心を察し、「その奥にある夢や理想にわずかでもアプローチできれば」との願いで、毎週のサークル活動に奉仕するのみです。







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Last updated  2008.05.09 02:37:28
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