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職の精神史

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2008.04.26
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※この文章は、2003~2006年に大学生・若手社会人向けに配信されたメルマガ『内定への一言』のバックナンバーです。


250.「可能性とは努力であって、時間ではない」(アミエル)



よく若者は、「若者には可能性がある」と言います。人が言うならまだしも、自分で言います。学生さんも、よくこういうことを言います。それはそれで、自分に与えられた時間の価値を大きく見積もっている証拠で、大変立派な心構えです。しかし、良い言葉は往々にして、二面性を持っているもの。つまり、「逃げ道にもなる」ということです。

なぜ若者に「可能性」なるものが与えられている、と言われているのでしょうか。それは無論、「人生を経験できる残り時間が、他の世代と比べて長い」という事実によるものでしょう。つまり、若者に多く与えられているのは、「可能性」ではなく「時間」といった方が適切です。だから、時間が長ければ、「可能性を発揮できる確率」も多くなる、というわけなんですね。

そう、所詮「確率」なのです。そして、「確率=可能性」ではありません。確率とは、「平均より良い方に行くかもしれない」という見込みのことであって、「良い方に行く」という行動とは何も関係がありません。それに、「うまくいく確率」が高いなら、「うまくいかない確率」も同様に高いと考えるのが、常識的な考え方でしょう。つまり、「今、努力していない人間には、可能性などない」ということです。それを、「与えられた時間の長さ」に甘えて「可能性がある」などとごまかすのは、間違った態度です。

「可能性」?どんな可能性なのでしょうか?それをよく口にする人は、「今、毎日やっていること」の先に、自分がどんな結果に行き着くかを、考えたことはあるのでしょうか。

僕は、本業であるフリーターの再就職相談では、「今やっている行動が最終的にあなたにもたらすものは何か」を聞くことにしています。「分からない」と言っても無視します。分からない人など、いないからです。誰だって、「これじゃいけない」ということは、心の中では分かっています。そして、「僕は、君が深いところで探し当てた君自身を応援するのだ」ということを伝えるのです。そういう深い部分の信頼関係がなければ、繊細な転職相談は、スムーズに進みません。

人生には、「怠けている人間ほど、実は楽観的である」というギャップがあります。今サボっている人、分かっていて動かない人、頑張っている人に嫉妬する人、他人を認めきれない人、すぐに言い訳を作って中断する人…。フリーターの多くは、こういう若者です。

僕は、「なぜ、いつも、みんなこうなのか?」と考えました。性別、年齢、前職、志望職種、所得、教育によらず、あまりにパターンが似通っていたからです。そして、一つの結論というか、「仮説」にたどり着きました。それは、「だって、将来はいいことがあるかもしれないから」とか、「自分だって、やる時はやるんだから」と、心中奥深くに「楽観的な見通し」があるという心理状態です。

いわば、「運命的なハプニング」が、いつか自分を今の状態から救ってくれるだろうと、心のどこかで期待しているからこそ、今頑張らないというわけでした。英語の「happening」は、「happen」の派生語で、「幸せ」を表すことがあります。「幸せ」とは、「顕在化された可能性」と考えればよいでしょう。それまでどこかに隠れていた(潜在的だった)「可能性」なるものが、時を得て姿を現した(起こった=happen)から、「幸せ」になったわけです。

現在、僕が好んで集めているような「昭和25年以前」の古い本を読んだりすると、「幸せ」を「仕合わせ」と書いていることがあります。「先生がご紹介下さつた本を、たまたま立ち寄つた神田の古書街で見つけるといふ仕合はせがあり…」といった感じです。何かと何かが「仕合わせた」という語感が感じられますよね。つまり、「Aという要素(紹介による認識)」と「Bという要素(立ち寄ること)」が、「出くわした」という状態です。

これは、極めて「happen」と近い語感だとは言えないでしょうか。僕は別に、言語学の学説がどうなっているか、なんてことは知りません。ただ、英語でも韓国語でもマレー語でも、「そもそもの由来」を知るのは、とても好きです。そして、この習慣はしばしば、正確な定義と雷のようなアイデアを与えてくれます。

つまり、「今そこにある可能性」は、動かなければ掴めないということです。こんなことは、誰でも知っているし、何度も聞かされてきたことでしょう。しかし、「可能性があること」に安心しきって、あるいは甘え切って、掴むための行動を取っていない若者が、あまりに多すぎるのではないでしょうか。それは、「happen」が起こりえない、ということです。仕合わせようにも、仕合わせる片方の要素としての「行動」がない、ということです。だから「happening」、つまり「幸せ(仕合わせ)」は、起こりません。

そこに可能性があろうと、動かない人間には「豚に真珠」です。つまり「無意味」ということです。そんな人には、ただ「茫漠たる時間」あるのみ。ダラダラ過ごして、時間を埋め合わせるための行動を「カラオケ」や「ボーリング」などのように、「他人のアイデア」との合作で済ませる若者に、一体どんな可能性があるというのでしょうか。そういう若者には、老人以下の可能性すら、ありません。

別にカラオケやボーリングが悪いというではありません。僕だって、年に1回くらいは行きます。しかし、「やることやったぞ!」という気持ちでなければ、とても行くことはできません。やるべきことが分かっていて、それを後回しにして遊ぶと、僕に与えられていたはずの「仕合わせ」が、逃げて行ってしまうような気持ちになってしまいます。そういう信念を昔から持っていたので、友達も多くありませんでした。

しかし、人脈はたくさんできました。こういう点での僕の感情は、30歳になった今でも、とても「子供っぽいもの」だと思いますが、僕はこういうことをデタラメにして生きるには、気が小さくできているようです。しかし、それを恥だと思ったことはありません。口だけでかくて「豪快な人間」を装い、全く結果が伴っていない人間よりも、僕の方が何倍も成功しているという実感があるからです。

皆さんにも、与えられているのは「可能性」ではなく、「時間」です。それが「可能性」になるのは、自分が努力している時だけです。自分の努力こそ、そこに待っている「運の片割れ」と自分を仕合わせる要因です。そうしてこそ、「可能性がある」と言えます。そう信じて、今日も自分を「幸せ」に一歩近付ける一日にしましょう。









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Last updated  2008.05.09 01:05:17
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