王監督、ありがとう
ソフトバンク・ホークスの王貞治監督が昨日、本拠地での最後の試合を終えらっしゃったとです。私は観に行くことができましぇんでしたが、女房と子供たちは少年野球チームの招待で観戦し、私も球場に子供たちを迎えに行ったけん、試合終了後の王監督の挨拶は球場のコンコースにあるテレビモニターでガラス越しに見たとです。(声はラジオで)23日、辞任のニュースが伝わった時、私は冷静に「やっぱりな」と受けとめました。シーズンの初めに「今年最後のつもりでやる」と明言されとったし、今季のこの成績では、そげんなってもしかたなかろうと考えとりました。事実、監督自身も辞任会見の中で、「今年が最後、という言葉がナインに変なプレッシャーをかけてしまった。14年間の監督生活で、それが一番の反省点」とまでおっしゃっとります。思うごと上がらんナインの士気が、自分の体調のせいだと責任を感じらっしゃあとは、どこまで紳士なんでっしょうかね。王監督が現役選手で、ハンク・アーロンの持つ755本の生涯本塁打記録ば抜いたとが、1977年(昭和52年)。私は17歳で、ライオンズが所沢に移転する2年前。バリバリのプロ野球ファン真っ盛りであり、パ・リーグはライオンズ、セ・リーグは巨人ファンでした。ちなみに私は、「巨人・大鵬・玉子焼き」の最後の世代でしょう。横綱・大鵬の現役引退が1971年(昭和46年)やけん、私は11歳。「柏鵬時代」の柏戸の方は全く記憶にありまっしぇんが、大鵬が強かったとは「大鵬、32回目の優勝です!」というテレビ画面がしっかり記憶に残っとりまして、よう覚えとります。また、私は当然の如く高校野球の熱烈なファンでもありました。1977年のセンバツは箕島高校が優勝、決勝の相手は山沖投手のいた高知・中村高校。夏の甲子園は、1年生投手「バンビ坂本」の東邦高校と東洋大姫路との決勝戦。サヨナラ本塁打ば打たれた坂本投手の方が人気者になった、あの年ですたい。そういう思春期盛りの時期に「王選手」ば見てきとりましたんで、私にとってのプロ野球最高の選手が王貞治その人やったとです。そのスーパースターが、ダイエー・ホークスの監督に来てくれた時は、本当に本当に嬉しかった。実際に就任してから気が付いたとは、とにかくマスコミの扱い方が違ったことです。ことあるごとに「王ホークス」という冠が付いて取り上げられ、それまでよりチーム自体のマスコミ露出度が格段にアップしたとです。そして、あれから14年もの間、本人が選手時代に体現してきたプレーそのものの「豪快な野球」で私たちば魅了し続けてくれました。ホークスが福岡に来た時、断腸の思いで1000キロものさいはての地にいってしまったライオンズのファンばやめ、「地元チームを応援しよう」とダイエー・ファンに乗り換えました。しかし、平和台球場に何度足を運んでも、負けまた負けの繰り返し。3回ぐらいまでに5点10点取られるのは当たり前。それでも、地元に野球チームの無か「空白の時間」ば耐えてきた福岡の人間には、ホークスが福岡にいてくれるだけで幸せやったとです。そして、そげな万年最下位のダメチームに、王貞治が監督として就任してくれる・・・。あの時の驚きと喜びは、とうてい言葉じゃ表しきれまっしぇん。就任から3年間は、あの有名な生卵を投げつけられる事件の起こるほど、思うような成績は残せんでした。しかし小久保、松中、井口、城島、川崎、斉藤和巳、杉内、和田といったチームの屋台骨ば支える選手を次々と獲得。これらの選手が「ホークスに入りたい」と決断するとにも、王監督の存在が重要なファクターであったことは間違いないはずです。事実、城島などは少年野球時代に野球教室で王監督に声をかけられ、また、高校卒業時はドラフトで強行指名されて王監督直々に入団ば勧められ、大学進学を蹴ってホークス入りしとうくらいです。そして4年目の98年にAクラス入りし、翌年、ついにダイエー球団ば初優勝に導き、その後も常に優勝争いばする常勝軍団に育て上げてくれたのは、まぎれもなく王監督その人。福岡のホークス・ファンで、それに異論を差し挟む人はおらんでしょう。昨日の試合後、王監督はナインの手によって胴上げされました。誰よりも美しい、あの胴上げされる姿を本舞台でもういっぺん見ることばできんかったとは、本当に残念かです。今年、優勝はおろかクライマックス・シリーズ進出さえ逃した成績にもかかわらず、王監督辞任の報に「無責任」や「辞めて当然」といった声は一切聞こえてきましぇん。福岡の街全体が、本当に王さんが福岡に来てくれてよかったぁ~、と思っとうとです。「福岡の人はみんな温かかった。これからも福岡を拠点にしたい」そう、王監督は言ってくれとります。これが我々福岡の人間には、何より誇らしかです。王監督、14年間ありがとう。そして、お疲れ様でした。