私が高1の冬休みに、母は家を出て行った。
いつかはそんな日が来るだろうと思っていた。 閉塞感で満ちた家。
息苦しく、生き苦しく、閉ざされた監獄の家。 私はかろうじて、「死ねないから生きていた」。
高校の友と過ごす時間だけが、唯一私に安息をもたらした。 それだけが全てだった。
霧のようにかき消えそうなか細い命綱だった。 それでも家に帰れば、淀んだ空間の住人になる。
私は笑っていただろうか。泣いていただろうか。 時折襲ってくる抑えようのない衝動に、
真夜中にガラと障子を開けて、素足で庭に飛び出した。 地面に寝転がり、暗闇の先に何を見ていただろう。
なぜ私だけが…。 祖母が気づき外へ出てきたのは、いつのことだろう。
祖母だけが、私の何かに気づいていた。 あの頃、あの家では、なぜ女子どもだけが、
あんな思いをしていたのだろう。 全ての責任を放棄した、たった一人の気弱な男のせいで。
いつまで経っても、大人になれない愚かな男のせいで。 酒に酔って、女を殴る術しか知らない馬鹿な男のせいで。
親としての自覚も怪しいような、子ども染みた男のせいで。 無軌道になっていく自分を止めるのは容易ではなかった。
いや、あの頃は止めようとも思わなかった。 冷めていた。その現実の中では、夢など何も無かった。
あるのはひとつの願望だけだった。 早く死にたい。
大人になる前に。 呪縛の言葉のように、脳裏を侵略していたのは、
ただそのことだけだった。 私には重たすぎるしらけた現実。
眠れない。眠れない。眠れない…。 眠れなくなったのは中学の頃だった。
布団の中でまんじりともせず、2時間3時間…。 睡魔が私の手をとって舞踏会へ誘ってくれるまで、
眠れぬ私の脳は、何を反復していただろう。 出て行く数日前、母が突然言った。
家を出て行くけど、一緒に来るかと。 捨てろと?唯一私が笑顔になれる友から離れて?
私の命を繋ぎとめている友からいきなり離れろと? その先に何があると言うのだ。
貴女がこの場所から解放されても、そこに私の居場所はあるの? それで私の心は、穏やかに解き放つことはできるの?
傷ついた貴女には、もっと傷ついた私が見えるの? だから来いと言うの?
じゃあ、タカシはどうなるの? タカシは連れて行かないの?
なんでタカシも連れて行くと言わないの? 私だってここにいたいわけじゃない。
いえ、ここは、ここは私が生まれた場所。 あの男さえいなければ、私はここが好き。 あなた達さえ上手く行ってくれたら、
ここは私にとってかけがえのない場所。 裏山も庭も、庭から続く畑も、私の宝もの。
石垣のスミレ、裏山のほおずき、早春の梅の香。 遠い稜線、風渡る青田の波。
電車の音に耳を澄ました、庭先のダリア。 縁側に腰掛けて、遠く見る馴染んだ景色を、
貴女は私に捨てろという。 貴女はゆっくり見る余裕もなかったんだ。
見させてもらえなかったんだ。 貴女には帰れる場所があったから。
肉親という逃げ込める場所があったから。 ここの宝ものは見る必要がなかったんだ。 私は、私はね。
貴女の苦しみは知っている。 貴女は?貴女は知っているの?私を。
私が抱えた血まみれの花束を。 今にも粉々に砕けそうな危うい痛みを。
あと何度、何度私の心は折れたらいい? 心に淀んだものは溜まり続け、
行き場のない慟哭を無気力に変えて行った。 いつしか私は大人の顔色を探り、
言いたいことを飲み込む、歪んだ子どもになった。 今はただ貴女に、泣き言だけを言う子どもになろう。
あの日あの頃、言えなかったから。
2007年 秋
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