釘貫亨『日本語の発音はどう変わってきたか―「てふてふ」から「ちょうちょう」へ、音声史の旅―』
~中公新書、2023年~
著者の釘貫亨先生は名古屋大学名誉教授で、日本語学がご専門です。
本書は、タイトルのとおり、奈良時代から近世(さらに現在)までの日本語の発音の変遷をたどる、大変興味深い一冊です。
本書の構成は次のとおりです。
―――
はじめに
序 章 万葉仮名が映す古代日本語音声―唐代音からの推定
第1章 奈良時代の音声を再建する―万葉びとの声を聞く
第2章 平安時代語の音色―聞いた通りに書いた時代
第3章 鎌倉時代ルネサンスと仮名遣い―藤原定家と古典文学
第4章 宣教師が記録した室町時代語―「じ」「ぢ」、「ず」「づ」の合流と開合の別
第5章 漢字の音読みと音の歴史―複数の読みと日本の漢字文化
第6章 近世の仮名遣いと古代音声再建―和歌の「字余り」から見えた古代音声
おわりに
注
索引
―――
以下、興味深かった点を中心に、要点をメモしておきます。
序章では、本書の導入として、ひとつの音をあらわすのに様々な漢字が当てられた万葉仮名ですが、たとえば同じ「コ」の音でも、明確に使い分けがあったことを指摘し、オなどいくつかの母音には2種類があったことを示します。(詳細は本論で論じられます。)
第1章では、中国古代音の復元研究の知見をもとに、奈良時代のハ行音はp音(ハヒフヘホはパピプペポのように発音)だったことを指摘するほか、同じく梵字の発音方法を示した記録に基づき、サ音がツァ音だったことを示す先行研究を挙げ、これらが定説になっていることが紹介されます。
第2章は平安時代の音声ということで、カタカナ、ひらがな、いろは歌の誕生などが紹介されます。ここではカタカナについて、もともと漢文訓読の際の訓点の一つだった=漢文を読み下すための符号だったため、これで文章をつづるということがなく、現在も外国の人名地名や「サラサラ」などの擬態語擬音語に使われるのは、この符号的特徴を保持しているため、という指摘が興味深かったです(71頁)。また、第1章でも扱われたハ行について、平安時代にはp音からf音にかわり、18世紀にはおおむね今のような音になった、という流れもたどられます。
第3章では、すでに鎌倉時代には平安時代と音声がかわっていたため、たとえば源氏物語の平安時代の写本のように総ひらがな、濁・句点・読点なし、会話を示す区切りなしという文章がきわめて読みにくくなってしまっていました。そこで、藤原定家が適宜漢字を配置し、句点や読点を付して読みやすくする、という工夫を凝らした、ということが紹介され、藤原定家による表記改革とその意義が論じられます。ここでは、総ひらがなで句点・読点もなくつらつらと書き続けられているという平安時代の写本の書き方が、ヨーロッパでの「分かち書き」以前の書き方に通じるあたり、興味深く読みました(たとえば、ロジェ・シャルティエ/グリエルモ・カヴァッロ編(田村毅他訳)『読むことの歴史―ヨーロッパ読書史―』大修館書店、2000年を参照)。
第4章は、「じ/ぢ」「ず/づ」の四つ仮名の問題から始まり、室町時代の宣教師による記録から、これらの音が合流していく様子をたどります。鎌倉時代までは、「藤(ふぢ)」と「富士(ふじ)」は明確に異なる発音であったのが、次第に音としては合流していく、というのですね。
第5章は、漢字の音読みが複数ある現象「日本漢字音の重層性」についての議論です。日本には、大きく3つの段階で中国から漢字音が伝わりました。3~6世紀に伝わった「呉音」には「成就」「平等」など仏教語が多く、6~8世紀に伝わった「漢音」には、「内裏」「経典」「図書」など制度や儒学などの世俗的概念をあらわす言葉が多く、13世紀鎌倉時代に伝わった「唐音」には「行脚」「椅子」「暖簾」など特に禅宗とともに入った言葉が多いといいます(161-163頁)。これらはそれぞれ別々の集団の中で用いられていましたが、庶民にも広がっていく中で、それぞれの音が残ったため、「銀行員の行雄は、修行のために諸国行脚を行った」(160頁の例文)のような、一つの漢字に複数の音が存在しているといいます。逆に中国では、日本では「ささのは」が「ツァツァノパ」と発音されていたのが忘れられているように、一つの漢字の音が「呉音→漢音→呉音→現代音」と変化してきており、1字に対して1音が対応しているといいます(164頁)。大変興味深い章でした。
第6章では、本居宣長の仮名遣い論の詳細な紹介とともに、明治以降の仮名遣いに関する制度を概観します。
ふだんなじみのない分野の本ですが、たいへん読みやすく、また内容も抜群に面白く、興味深い1冊でした。勉強になりました。
(2023.04.15読了)
・その他教養一覧へ