カテゴリ:創作
己(おれ)はかつて、人間(ヒト)ではなかった。
学舎で過ごしている時、己は他人を寄付ける魅力が在った。否、在ると信じていた。 周囲の連中は己の一言一句に笑い、己を「面白い人間」と評していた。周りにはいつも級友が集まり、和気藹々(わきあいあい)と対話(はな)していた。 己は生来、人間と関る事が苦手だった。緊張して汗が噴き出る事も多かったし、吃音(ども)ってしまうことなど数限りなかった。しかし、級友達はその様な事は気にせず、どんどん話し掛けてきた。これも、己の人気を示していたと云えるだろう。 それは只(ただ)の夢幻(ゆめまぼろし)だった。 幻想の瓦解は、突如として訪れた。授業が始まる少し前、準備をしている女が鉛筆を取り落した。己は純粋なる親切心から鉛筆を拾い、それを渡した。 女は笑顔で礼を云い、己は自分の席へと戻るべく歩き出したが、ふと後ろを振り向いた。そこには、己から受け取った鉛筆を屑籠(くずかご)に捨てる、彼奴(あいつ)の姿が映っていた。 己は困惑した。何故、彼奴は魅力在る己から受け取った物を、腫れ物を触るように棄てていたのか。答は、直(すぐ)に見付かった。否、己は基(はじめ)から気が付いていたのかも知れぬ。 思い出せ。己が吃音りながら懸命に言の葉を紡いでいる時、汗を流しながら焦燥感に追い遣られている時、彼奴等は何をしていた。笑っていた?否、嘲笑(わら)っていたのだ。 思い出せ。己は休憩時、何をしていた。独人(ひとり)でぽつねんと坐っていたではないか。己は彼奴等と共に遊んだことなど、只の一度も無いではないか。彼奴等が己に話しかけ、己が言葉を返し、其(そ)れを彼奴等が嘲笑う。その繰り返しだったではないか。 全てを説明出来る解答は在る。だが、其れを認めていいのか?認めない為に、己は今まで眼を瞑って来たのではないのか? だがもう駄目だ。無駄だ。茶番だ。此の状況を観て仕舞ったからには、その答を導き出すしか無いのだ。どんなに逃れようとしても、どんなに避けようとしても、答は其の無慈悲な爪と牙を、己の身体に食込ませて来るのかだから。 そうなのだ。逃げる事は出来ないのだ。この、醜悪な現実からは。 彼奴等にとって己は、人間ではなかった。 彼奴等にとって己は、奇奇怪怪な生物でしかなかったのだ。 其の日から己は、学舎という橋を壊し、世界と己を切り離した。其れしか、己が助かる道は無かった。 自室に篭る様になってから、半年が過ぎた。 同級には、「何故?」と聞かれた。 教師には、「どうした?」と問われた。 親からは、「寄生虫」と罵られた。 世間からは、「卑怯者」と蔑まれた。 何とでも言うがいい。幾らでも罵倒するがいい。しかし、己は動かない。 気が付いてしまったからだ。己の生きる場所は、此の世界では無いと云うことに。 喋ろうとしても、吃音らない世界。焦っても、汗が噴き出ない世界。己が、人間で居られる世界。そこが、己の居るべき世界。 広大な電子の海の中で、己は遂に人間になれた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Apr 29, 2006 08:45:25 PM
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