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カテゴリ:論文執筆にむけたメモ・つぶやき
さて、またまた固い話ですので、
よかったお付き合いくださいませ~。 私たちのデザ大の学生さんである はたけフードさんから、こんなコメントをいただきました。 「ちなみに、最近は「豊かさとは?」ということについてブログを 書いてらっしゃますが、個人的には、「豊かさ」というものに指標 …(云々と書いてありますがという意味)、 というのはモノサシってことで、大きいか小さいかという判断は、 それ自体、必要ないのではないかと思っています。」 そうなんですよね。 いや、まったく私が悩むのも、そこなんです。 何を悩むのか? つまり、豊かさってのは、大きいか小さいかも比較する必要がない。あくまで、個人の価値観のなかで判断されていくこと と考えるべきである というのは、みんなの常識にも沿った、正しい意見であると自分も思います。 しかし、しかしですね。 そう考えるとき、1つの問題があると思うのです。 それは、 豊かさを個人の価値観だけの問題にすると、いつまでたっても社会の豊かさにならないのではないか? という問いです。 例えば、安全で安心できる、健康で手間をかけた食を「豊か」だと 思いますよね?(デザ大生徒はたぶん全員)。 しかし、今の若い人にこれをいっても、 豊かなことは、「マクドナルドでランチをすること」なのかもしれません。 豊かさの内容を「個人の好き嫌い」というレベルでとらえてしまうと、 さっき、書いたような「豊かな食」の話も、もしかすると、 「デザ大さん、そんな理想論いったって、意味ないよ。 お金で買える限りどんどんつかっていくのが、 幸せであり豊かなんだよ~」と 言われちゃうかもしれません。 僕は、豊かの定義というのは、 社会のなかでおおよそ「共有」されるべきだと思っています。 わたしたちがマナーと言ったり、常識と言うのは 英語で言えば「コモン センス」(共有の、共通の感性・感じ方)です。 むしろ、社会にコモンセンスがあるのではなく、 コモンセンスを持つ人の集合が社会であると定義できると 思います。 そう考えると、今の日本は大変なのです。 今の社会の減少を、 豊かさという価値基準を「共有できていない」ことに原因があると 理解すると、 社会がそれだけ脆い若しくは崩れかかっていると (過激に言えば)言えるのですから。 逆に言えば、ここが共有されれば、 農作物をめぐる、消費者と生産者の対立のようにみえる対立 (実は、これは、生き物を育てる人のまごころと、 経済ですべてを押しとおす資本主義の対立だと思いますが) も解決できるのではと思うのです。 そこで僕の問題意識は、 どうやったら、社会に共通の(又は文化としての) 豊かさの価値観を育てることができるのか?に行き着きます。 そのためには、数量的に表示しなくてもいいけれども、 「豊かさ」をもう少し限定的に解釈できる表現が 必要なのかな?と 感じているのです。 ここから先はまだ見えていないのですが。 ここまで読んでくださった方、ありがとうございます! 私を助けると思って、 感想でも、反対意見でも、いってくださいませんか? どうぞよろしくお願いいたします! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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