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自然再生と地域社会

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2009.02.01
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前回は問題解決に向けたリスク認識について書きました。ただその中で、たとえリスク認識を適切な位置に戻すことができても、それを地域住民が受け入れない可能性も否定できないことを述べました。これはどういうことなのか説明すると同時に、今後どのような方法でリスクを許容していけばよいのかいくつか考えられるところを書いてみたいと思います(こちらについてはまだまだ不十分です。予めご了承を)


リスクには一般的に2つのタイプに分けられます。一つは主体となる人間の多くが直接利益を享受することができるタイプのリスクと、そうでないタイプです。仮に前者をリスクA、後者をリスクBとします。たとえば、自動車交通事故のリスクはこのリスクAに当てはまります。交通事故は「車社会の恩恵」の結果生じてしまうものです。車社会は多くの人間が能動的に関わり、直接的に利益を受けることができます。誰もが交通事故は避けたいと思うはずですが、交通事故が起きることを理由に、車の利用は絶対にすべきでないという思う人は「大多数」ではないはずです。つまりこれは交通事故のリスクを多くの人が許容して、車社会とうまく付き合っていると言えます。

一方で、今日しばしば話題となっている食のリスクなどはリスクBに当てはまります。このリスクは多くの日本人にとって直接利益を享受することはできないようです。たとえばそれは、鳥インフルエンザが疑われる養鶏場が見つかったとき、多数の鶏を補殺処分したり、関連業者を廃業に追い込んだりしましたが、世論はそれを「当り前」のことのように考える傾向があること(あるように思えたこと)からも裏付けられます(ちなみに、鳥インフルエンザが人間に及ぼすリスクは限りなく少ないことは、問題が発生した当初から同じタイプのインフルエンザを用いたアメリカや韓国の実験で明らかにされていたそうです)。これは、食のリスクに関して多くの日本人は許容できず、社会は「絶対安全(ゼロリスク)」を目指す傾向があることを示しているわけで、こうしたタイプのリスクとはうまく付き合っていけないことを意味しています。


リスクとは、そもそも「何らかの利益を享受したい」がために実施した事象に対して付随的に生じるハザード(エンドポイント)の発生確率とその規模(大きさ)と定義されます。利益を享受できる人間が多くなればなるほど(つまり、リスクに主体的にかかわることができる人間が増えるほど)、そのリスクは受け入れやすいものになります。


さて本題に戻ります。

現状で「里でサルと付き合うこと」はリスクBのほうに分類されてしまうでしょう。つまり、サルと付き合うことによって、直接的な利益を享受できる人間が乏しいからです(付随的に生じるハザードに悩まされているわけです)。実際、これまで述べてきたように、「絶対安全」=「全部駆除」を指摘する声が地域に最も多いこともこれを裏付けています。リスクを許容し、問題解決していくために重要な点は、「里でサルと付き合うこと」に対して地域住民が享受できる利益を最大化することだと私は考えています。言い換えれば、「里でサルと付き合うこと」というリスクに対する地域住民の態度を受動的(客体的・消極的)なものから、能動的(主体的・積極的)なものへと切り替えていくことが重要であるということです。これまでの被害問題に対する各種対策はこの「ハザード」をいかに少なくするかにばかり重点が置かれてきました(※)。しかし、これだけでは、地域住民の「里でサルと付き合うこと」に対する姿勢を受動的なものから、能動的なものへと切り替えていくことは難しいはずです。

サルと今後末永く付き合っていくために一番難しい点は、被害をいかに軽減するかではなく、実はこうした「ポジティブな価値」を作り出すことではないかと私は考えています。サルはかつて食料・薬・魔除けの材料としての「資源」の価値が認められていました。しかし、戦後保護獣に指定されてしまったサルに、そうした「資源」としての価値を見出すことは非常に難しい状態にあります。サルは日本の固有種だからそもそも価値 (いわゆる保全生物学でいうconservation ethic) があるではないか、と考える方もいると思います。しかし、これが直接被害を受けている人間を含めて共通した価値認識になるようには私は思えません(もちろん価値認識を広めるための努力は必要です)。歴史的に見ても、益害論はやはり強力だと私は思います。

一つの「ポジティブな価値」を見出す方法として、サルが森林生態系で果たしている生態学的な役割(その機能やサービス)を明らかにすることは重要なはずです。意外に思われるかもしれませんが、こうした研究は実に少ないです(種子散布などに関する議論はありますが)。これは研究者に課せられた今後の大きな課題のはずです。

最近のエコツーリズムやネイチャーツーリズムの流れに乗って、「観光資源」としてサルの価値を見出すという方法もあるのかもしれません。実は以前白神山地で同様の取り組みをしたことがあります。これに関しては比較的成功しましたが、どこもかしこもサルだらけになりつつある現状で、この価値を今後も十分に発揮できるかは微妙かもしれません。

兵庫県でコウノトリを再導入する際に考案された「コウノトリ米」というブランド商品作りも一つの手かもしれません。コウノトリが住めるような良い環境で作られた米だから安全安心だとして、ブランド化(付加価値をつけて)販売しているようです。この考えをそのままサルに持ち込むことは難しいでしょうが、何か類似した方法はあるかもしれません。


いろいろ書きましが、ここで言いたい点は、人とサルとの共存にかかわる様々なリスクとうまく付き合っていくために、そして「サルと付き合っていくこと」に関して市民を受動的立場から能動的立場へと移行させていくために、サルに対してポジティブな価値をどのように付加していくかに関する議論があまりに乏しいことです。私一人考えても、到底太刀打ちできません。いろいろなアイディアが必要なはずです。


これまで長々と書いてきましたが(まだまだ書くべきことが山積していますが)、次回はこれまでの総括的な内容と、今後の縮小社会における人と野生動物との付き合い方の展望を書きたいと思います。



※もちろんハザードをゼロにできればよいですが、これまで論じてきたように、それはかなり難しいです



霊長研 江成広斗





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Last updated  2009.02.01 09:06:09
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