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何日か前に、読売新聞のコラムに2日間続けて”日比のはざま”、、 と、言う記事を見ました!、、その中で、、70歳代の日本人がフィリピンで 生活が苦しく、、大使館から日本へ帰るように説得しているが、、本人は 帰る事に躊躇いがあるようで、日本に帰っても何も無いからと、、、、、 大使館員からの、、意見を聞かず、、、地元の、、フィリピン人からの施しは 受けるが、、日本人の、、助けは、受けない! 最後まで、私はフィリピンで 生きる!! そんな記事だったと思います 妻にこの記事を読んで聞かせると、、、ソンナ ノ イッパイ ヨォー! マニラ ワ モット イルヨォー! ダカラァ アコ バハラナ アヨコォー! センソウ ノ ヒト モ イル ダヨ!! ハポン ワ メンドウ ミル シナイ カラァ! ヤッパ ピリピンジン ガァ ヤサシイ ダヨォ~! 映画の”恋するトマト”の中で、、海辺で、フィリピン人がお腹を空かせている 日本人に、コマインカナァバァ~(御飯食べるぅ~?)というシーンがありますが、、 見ず知らずの人にも、躊躇いも無く、声を掛けられる国、、、
何故、異国の地で、日本人同士が、差し伸べた手に、、、躊躇されるのか? 私は、、その方の気持ちが痛いほどに、、、感じました! 食べる事にも苦労しているのに、、、日本へ帰ろうとしない! 今の日本へ、、帰っても、、と考えているんでしょうけど、、 ちょっと複雑な気持ちですねぇ、、日本人は国に対して求める事は多くても、、 私達が、、出来る事は何なんでしょうねぇ、、
私が小学校に上がる前に、、母によく上野に連れて行ってもらいました、、 私は、、松坂屋の最上階の大食堂で、、かたきそばを食べるのが大好きでした 上野の駅から、、御囲地町まで、、アメ横を通り、威勢の良い掛け声をぉ 活気のある風景を今でもよく覚えています。 それでも、、上野の階段には復員兵の人が、、白い服を着て、、アコーデオンを 引きながら、、頭を下げ、、慈悲をと、、、、、腕の無い方、、足の無い方、、 様々な方が、、、前に箱を置いて、、居ました、 ガード下には、、私より少し年配の子供達が、、寄り集まり、、手を差し出してきます、 私は、そこを通るのが、、、とても嫌いでした、、、、 母の手を何時もよりぎゅっと握り締め、、真っ直ぐに前を見ながら、、 急ぎ足で、、歩きます、、でも母は何時も、そこで立ち止まります、、、 母は、、上野に行く時にお弁当を、2つ作ります、、、、、、 1つは、、自分のお弁当、、、もう1つは、、そのガード下の子供達に、、 母に促されて、、その子供達は、、新聞紙を広げ、、その上に、白い御飯と、、 少しのおかずを、、乗せていました、、、 小さい私にも、、親が戦死し、、子供達だけで、生活している事は容易に判りました 食堂では、、私の分だけ注文して、母は、もう1つのお弁当を開けていましたねぇ、 その頃は、、何処でも寛大だったんでしょうねぇ、別に誰にも言われませんでした 何で、、今頃こんな事を思い出すのかなぁ~?、、、自分でも良く判りませんが きっと、、この記事の内容が、、私には、、とても気になっていたんでしょうねぇ、、 何、不自由なく育ててもらい、、今、母と同居しながらぁ~喧嘩してます(^^;) 妻ともぉ~ですけどねぇ~(@^0^@;)
こんな私も、フィリピン移住希望者です!! ユルシクゥ~!オニガイ シマスゥ~!\(@^0^@;)/ マイ、、フィリピンズ!!
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