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昨日の夕方、仕事帰りに夕立に遭遇しました。国道の追い越し車線側で渋滞にはまっていたのですが、突然の雨で傘を持っていなかった小学1年生が雨に濡れたまま横断歩道を歩いていました。
私の車に常備している100円ショップの傘を渡してあげようと思ったのですが、信号待ちの追い越し車線に車を止めたままにするわけにもいかず、かといって隣に停まっている車の人も見て見ぬふり・・・ 自分自身が情けなくなってしまいました。 こんな土砂降りの中、小さな子供が濡れているのに手を差し伸べないなんて・・・私はなんという薄情な人間なのでしょう。 私の息子たちも同じ状況でいたとき、誰か手を貸してくれる人がいるのでしょうか? やはり同じくずぶ濡れになってしまうのでしょうか。 「雨にも負けず(宮沢賢治)」を思い浮かべてしまいました。 福島の子供たちは「雨にも負けず」「風にも負けず」「夏の暑さにも負けず」おまけに「放射線にも負けず」に頑張っています。 いや、頑張っているのではなく、頑張るしかない状況と、回りの無関心から戦わされているのかもしれません。 そんな自分の無力さで落ち込んでいる昨夜、久しぶりに知人と話をする機会がありました。そこでは今の福島の放射能汚染に関する話や、子供たちの避難に関する話、これからどうなっていくのか? どうすればいいのか? そんなことを2時間くらい話したかと思います。 やはり個人間に温度差はありますね。何をして危険、の基準を誰も安全方向には向けていないのです。それだけ国が定めた基準に対する不信が強いのですね。そのために、情報そのものが正しいとしても、その通りに受け止めることができない。専門家がそれぞれの意見を論じようと何をしようと、国(政府)を信用していないことが全てを疑う図式ができています。 私は、どのタイミングで子供たちを福島市に戻そうかという点で悩んでいます。話をした相手は、海外に避難した孫は残念ながら自分が生きているうちに福島に連れてくることができないと言っています。 「放射能を恐れすぎるな、フクシマの危機は過ぎた。」(http://news.livedoor.com/article/detail/5699797/) この情報を額面通りに受け取れば、多少は不安が薄らぎますね。 しかし残念ながら私からすると、今更の情報を取り上げている感じもするし、家族と余暇を過ごすためにやってきたロシアの人に放射線について質問していることが不思議?にも思えてしまいます。 取引上の付き合いで、ロシア・中国方面からの船は北海道以南の港には近づかないそうです。 ロシアから余暇を過ごすために日本にくるのであれば、危険ではないという認識でよいかとは思いますが。 国は不信だし、県や市がやっていることは、なんとも的外れ(タイミングといい、自主的ではないことがミエミエで、県民が望んでいる(期待している)こととの乖離がひどい)飯舘や浪江などの高い放射線を受けた可能性がある人達は、5月から「内部被曝を検査して欲しい」と言い続けているのに、今のタイミングで聞き取り調査だし。 ヨウ素による高い被曝をしている可能性が一番危険であることは明らかなのに(逆に言えば、セシウムの外部被曝は言われているほど危険ではない)どうして4ヶ月過ぎた今頃にホールボディカウンターでの調査なの?と。 「専門家の言いなり」であるのでしょうけれど、それにしても的外れに思えて仕方がありません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.07.12 13:41:51
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