仙台七夕の由来(続)
もともと七夕祭りは全国にある伝統的な民俗行事で、仙台固有のものではない。今日の竹飾りのスタイルや、五色の短冊にをつける風習も、元禄頃に江戸の町々で行われたもので、これが他の地方と同様に仙台にも移入された。明治以後、時代の変化で多くは廃絶したが、仙台では、肝心の祭りの信仰面は空洞化したが、形式面を存続しつつ、しかも観光資源の最たるものとしてデラックスなものに仕立て上げた。昨年(平成18年)の仙台七夕の観光客入込数は、2,140千人だ。近年は減少傾向にあり、また松島海岸(3,711千人)、光のページェント(2,600千人)には届かないが、いまなお仙台の大きな観光イベントだ(データは平成18年観光統計概要、平成19年7月)。1 我が国の七夕祭りの成り立ち本来我が国の七夕祭りは農を主体とした人間生活に密着したものだった。「七夕」という外来の中国語を「たなばた」と日本語読みしていることが、古来の民俗信仰の本体があったことを示す。この信仰を母体として、その中から盆行事の部分が仏教によって抽出・包摂し去られ、更に中国伝来の乞巧奠(きこうてん)という星祭りが合体・ミックスされた。我が国では毎年2回の満月の日、すなわち旧暦正月と7月の15日は、祖霊を祀る最高潮の日とされた。そして、正月の七草の日と7月7日は祭りの準備に入る斉日(いわいび)であった。旧暦7月7日はちょうど稲が開花期に入るとともに、風水害や病虫害の季節で、豊作を神々に祈るほかなかった。7日の早朝、禊をして身心を清め、祖霊を祀るお盆の行事に入った。これが農耕文化とともに始まった七夕の起源だ。日を定めて帰ってくる祖霊に、山海の幸と新しく織った御衣を捧げる。御衣は選ばれた棚機女(たなばたつめ)たちが、機家(はたや)の棚機(たなばた。機の構造上棚があるからこう呼ぶ。)で織り上げたものである。各地の機織沼などの伝説はこの七夕信仰の名残であり、宮城県内でも潟沼(大崎市鳴子)、化女沼(大崎市宮沢)、機織沼(登米市錦織)など。現在、葉竹にさげる紙衣も、女子の針仕事の上達を願う意だけではなく、元々は神に捧げる御衣の意味を持つものである。この七夕に引き続く祖霊の祭は、今では七夕と分離せられ全くの仏教行事となった。いうなれば仏教が民間信仰を部分的に接収したものである。元来個人の精神的解脱のための仏教と、霊魂や黄泉の国を信じる民俗信仰とは、互いに相容れるものではなかったが、だからこそ仏教が祖霊の祭りを主管するもの(葬式仏教)に変形しなければ大衆に浸透できなかった。こうして、お盆行事の部分が巧妙に仏教の担当するものとされた。中国から外来した「星祭」又は「乞巧奠(きこうてん)」について。太古漢水のほとりに織女があり、父王は牽牛を婿に迎えたが、織女は機織りを怠るようになったので父王は怒って牽牛を漢水の対岸に追放した。そして年に一度7月7日の夕だけ会いに来ることを許した。この地上の説話が、空に流れる天漢(あまのがわ、銀河)のヴェガ(織女座)とアルタイル(牽牛座)に移して考えられるようになる。詩経の大東章に、既に擬人化されたこれら二星が現れている。二星が視覚的に最も接近する陰暦7月7日夜、これを祭って技芸の上達を願う行事が乞巧奠である。乞巧奠が我が国に伝来したのは奈良時代の頃。孝謙天皇の天平勝宝7年(755年)に初めて乞巧奠を行ったとある(「公事根源」)。最初は宮廷行事として清涼殿の東庭で行われ、梶の葉に金の針を七本通し、別に七つの孔をあけて五色の糸をよりあわせて通し、庭に和金を立てかけ、天皇が二星会合をご覧になったと伝えられる。七夕祭りは江戸時代に入って「五節句」に数えられ、全国的に一層盛んになった。ちなみに、五節句とは、(1)人日(じんじつ。正月7日、七種(ななくさ)粥)、(2)上巳(じょうし。3月の初の巳の日、後に3日。桃の節句)、(3)端午(5月5日)、(4)七夕(しちせき)、(5)重陽(9月9日)。この頃から竹飾りも現れ、元禄頃からは短冊や吹き流しもつけるようになった。葉竹は稲とともに本来熱帯植物であり、正月の門松と同様に、神の降臨のよりどころを示す。短冊は四手(神事のしめ縄に垂れ下げる紙)の変形といわれる。2 仙台の七夕江戸風の七夕が仙台にも取り入れられた。6代宗村の時から一日繰り上げ旧暦7月6日の宵に行われた。6日夕方から笹竹を飾り手芸の上達を願い、また農家では田の神の乗り馬として七夕馬(藁馬)を作って屋根に上げるなどして豊作を祖霊に祈った。7日朝には、仙台では広瀬川に笹を流して、水を浴び洗い物をした。これが七日浴(なぬかび)や七日盆と呼ばれたが、本来は盆祭りに入る準備の禊ぎであった。明治維新や新暦採用で全国的に祭りは衰微し、東京でも明治中期にはほとんど見られなくなる。仙台でも、大正末期の七夕祭りは幕末当時のものに到底及ぶところではない(仙台昔語電狸翁夜話、伊藤清次郎)。また仙台繁昌記(富田廣重、大正5年)には「肴町や常盤丁の遊郭では思ひ思ひの意匠を凝らして人目を惹き」とある。仙台の竹飾りの目玉である薬玉(くすだま)も昭和10年頃に花街の人々の工夫で出現したものである。ちなみに東京でも同様の事情があり、永井荷風の日記(断腸亭日記)の大正7年の記事にも、「赤坂の妓窩(ぎか)林家の屋上に七夕の笹竹立てられ願の意図の風になびけるを見たり。旧年の風習今は唯妓窩に残るのみ。」と嘆いている。花街の人たちが七夕の竹飾りを棄てることなく守り継いできたことは重要な意味を持つことである。忍従の生活を強いられたこの人たちは、いずれも貧窮の農村の出身であり、ふるさとへの切実でひたむきな祈りを込めて、毎年竹飾りを作り続けた。さればこそ、純粋な七夕飾りの精神が脈々と保持されたのである。昭和2年、大町五丁目の商店界が七夕復興を提唱し、翌3年の東北産業博覧会開催の気運に乗って、仙台協賛会(観光協会の前身)、商工会議所、商店街を糾合し、旧暦から新暦の月遅れ(中暦と呼ばれる。ちなみに平塚は新暦。)の8月6日を期して、今日の仙台七夕が始められた。戦前戦後の中断を経て、昭和21年にはあり合わせの乏しい紙で工夫された七夕飾りが、市民の傷心にさまざまの反応をもたらした。翌22年は両陛下を迎えた(8月5日)のを機に本格的に復活。翌年には七夕協賛会が生まれ、今日の豪華絢爛なショー七夕になる。3 附言出典文献(後記)の執筆者も語っておられるが、仙台の商業主義ショー七夕に、無理して伝統的な箔付けをしようとして、藩政時代に仙台商人が七夕祭りを守ったなどと説明する向きもあるそうだ。しかし、華やかなショー七夕を豊かさの現代感覚だけでもって捉えてしまっては、きびしい自然条件の中で農耕に苦難を伴ったわが民族の素朴な信仰として始まった祭を理解できない。むしろ、花街の人たちが祈りを込めて守った竹飾りにこそ現代的な意味があるのではないか、とも思う。現在の観光七夕は、それはそれで美しい。しかし、祭りの意味を深く問うてみるとき、仙台を象徴する祭りと自称するからこそ、表面の華美さや経済効果なる側面だけでなく、その本体は何なのだろうか。また、祭りの主体が人間だとするならば、我々市民が何を願う祭りなのか、仙台は何を守ってきたのか、などについて深く考えさせられる。文献の執筆者の次のことばが心に残る。「旧物が一掃されたとき、人心は過去を顧みることをしないで、未来を夢見るものです。しかし、やがてその反動期が来て、再び古いもののへの郷愁に目ざめるが、その時復活するものは、もとの姿ではあり得ないのです。」最近の市政でも感じることだ。形だけの復古で、浅はかな満足に陥っていないか。■出典 仙台市民図書館編(編者種部金蔵)『要説宮城の郷土誌』宝文堂出版、1983年(ほとんど写し書きのようになってしまいました。前回も書きましたが、本当にすばらしい文献です。)■関連する過去の記事 仙台の花街(07年2月10日) 仙台七夕の由来(06年8月9日)