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秋田藩第9代藩主佐竹義和(よしまさ)(1775-1815)は米沢藩の上杉鷹山(1751-1822)と並ぶ藩政改革の成功者だ。
改革は教育から始まる。1789年に藩校創設の布達。城下東根小屋町に翌年3月完成。御学館、後に明道館、さらに明徳館と改称する。家臣に高い教養と見識を備えさせ、藩政を担う良吏を育成することを目的とした。同時に家中に「被仰渡」を出して学問を奨励。明道館は儒学を中心として、通学40名、寄宿50名の学生がおり、優秀な生徒には扶持を増やしたり、食費などを提供。通学生には交通費支給や伝馬の貸与も。 義和が人材育成に力を入れたのは、農村荒廃による財政危機が背景にある。義和が藩主となった1785年(天明5年)は、1783年(天明3年)の大飢饉の直後で、その後も天候不順が続き、餓死者は1万6千人とも。領内人口も激減し、土地を手放す潰れ百姓や逃亡者も急増、田畑の5割が放棄された村もあった。藩の収入も減少し、藩財政は崩壊寸前であった。 そのため改革は農政を中心とし、1793年から荒廃地であれば、直轄地であれ家臣知行地であれ耕作を許可した。武士や町人でも認めた。資金が足りなければ藩が貸すとし、辛労免高(しんろうめんだか)として耕地の年貢分を与えた。 同時に禁止していた新田開発も許可。土地売買も解禁した。これらの努力が奏功し田畑は拡大し年貢量も増えた。ただし、得をしたのは大地主や豪商で、彼らは競って資本を農村に投下し土地を集積し、没落農民との貧富の差がますます広がった。 しかし1795年の郡奉行設置で一般農民にもメリットをもたらす。秋田藩は直轄地が3割と少ない上に、入り乱れて混在していたが、直轄地は藩庁役人が、家臣知行地は地頭(土地を有する藩士)が統治する二元構造であった。地頭は年貢の他にも農民に拠出金を要求するなど支配権が強かったが、義和は地頭等の反対を押し切り、秋田六郡それぞれに郡奉行所を置いて、農政の一元化を図った。決まった時以外地頭は支配農村を訪れてはいけないとしたのである。 義和は藩内の殖産興業にも努めた。能代春慶塗、川連漆器、角館の桜樺細工、白岩焼、秋田黄八丈などの特産品は義和時代に起源する。1792年に産物方を設置し、杉、漆、藍、桑、楮、煙草、紅花、菜種などの換金作物の育成を奨励。稲作の合間に商品作物を育てさせて収入の足しにさせた。 また養蚕業の普及を図り、絹織物業に力を入れた。商人の石川滝右衛門を抜擢し、領内の生糸や絹織物を公定価格で買い上げて販売させた。織絹技術の普及にも力を入れ、農民だけでなく下級藩士の子女にも技術指導を行い、家中の貧困救済を図る。1814年に絹方役所を設立。しかし、絹織物業は結局3千両の赤字を出し失敗に終わる。江戸や大坂に遠く、技術も未熟で品質が悪かったことが要因だが、根本原因は藩の興業策の不徹底だったようだ。 秋田は米どころ。藩米の販売が主要財源で、殖産興業はあくまで副業だった。産物を自由売買して農民が商人化することは許さなかった。商売する者には税を課して強く統制した。もともと米穀第一主義と殖産奨励策を同時に行おうとしたところに絹織物業の失敗があったと思われる。 義和は、このほかに、銅山改革、藩史の編纂、林政改革などを行った。改革にあたっては、明道館出身の下級藩士から多くの逸材を取り立て、改革の原動力とした。銅山奉行などのほか蝦夷地警護に渡海した金(こん)易右衛門、林政改革を果たして秋田杉を守った賀藤景林、砂留方として砂防林を完成させた栗田定之丞など。 栗田は田畑を飛砂被害から守るため日本海の砂丘地帯に植林を行う。村人を根気強く説得し、熱意に心打たれた農民が、新屋地域の砂防工事では、延べ7万人無償奉仕したという。 出典:河合敦『改革の日本史』学習研究社、2002年 4-05-401813-0 ■関連する過去の日記(藩政改革関係) 秋田藩佐竹義宣の改革を考える(07年12月19日) 上杉鷹山の知恵袋 竹俣当綱(07年1月17日) 仙台藩の経済と財政を考える(1 藩札)(06年7月25日) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.12.22 12:01:44
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