カテゴリ:仙台
仙台藩の戊辰の戦乱を記した書物から、仙台藩の財政環境を学ぼうとしている。
戊辰の混乱で悲哀の末路を迎えるが、この書物は、勤王佐幕の順逆論に終始することなく、藩政の経済基盤を考慮に入れ、この大藩の崩壊の過程を社会経済の視点から総合的に考究しようとするものだ。 ○橋本虎之介『仙台戊辰物語』歴史図書社、1980年 (『仙臺戊辰物語』昭和10年刊行の再刊) この書の中に、化政期の仙台藩の歳入歳出が記されている。前後の財政環境を踏まえながら記す。 大藩の気風からか奢侈享楽の意識が染みついた仙台藩だが、天譴のごとく災害が続く。文化元年仙台城二の丸中奥の炎上、6年秋に蔵王山大爆発で阿武隈川の魚全滅、9年6月に旱害と七月に豪雨洪水、文政5年2月仙台大火(全焼五百余)、翌六年正月に全焼約二百戸、七年冬江戸上屋敷類焼、8年不作、など。藩の政治も、綱村吉村の中興期を経て、化政期27年間は藩主も夭折し、みるべき治績もないどころか上も下も遊楽驕奢の結果、必然的に藩の財政を加速度的に紊乱に導いた。 他方で国際情勢との関係では、仙台藩は工藤平助(赤蝦夷風説考の著者)や林子平(海国兵談)を輩出し、海国日本に警鐘を打つ大きな貢献をしたが、結局この北辺の国際紛議から藩として多大の犠牲を払い財政難に拍車をかけることとなった。 寛政11年幕府は松前氏の封地東蝦夷を直轄とし、津軽、南部両藩に出兵を命じ、次いで文化4年仙台藩に松前表の警固のため5百名の出兵を命じた。滞在中の食糧、武器調達に調練など、これは大変な騒ぎとなり、幕府の督促でさらに増兵を求められる。榴ヶ岡杉山台で調練を積み、文化5年、択捉国後に1,220人、次いで箱館備えの800人が進発。これら派遣兵は年内に無事帰藩するが、莫大な出兵費を捻出すべく、封内の農民に向こう5カ年で1万5千両の上納を命じ、藩士一統5年賦の貸上金を命じて、急場をしのいだ。 更に領内の沿岸警備についても寛政以来度々幕府から防備を令達され、財政難からお茶を濁していたところが、文化5年に南部領田名部にロシア船が来訪したこともあり、牡鹿から気仙まで40箇所に備え組(平均150人ほど)を置いた。蝦夷出兵費ほど莫大ではないが、年々支出するため、後の安政の北海道再警備とともに藩治に過重な錘となった。 化政期の財政状態はどうか。百万石の実高のうち60万石相当は他藩に比して多い家臣の知行高にとられるため、差し引き40万石内外の蔵入しかない。それに、独特の藩直営の米管理専売制である買米制度も凶作や相場下落で脅かされた。幕府からは毎年諸役を仰せつけられ、参勤交代も藩格から金がかかる。やむを得ず豪農富商には上納米御用金を仰せつけ、藩士には貸上金を命じたが、それでも常に不足し、大坂などの大商人から度々借財をした。最高職である首班奉行(執政)や、出入司(財用方総司として正保元年から設置)の苦労も並大抵ではなかった。 5代吉村でやや立て直した財政は、続く宝暦、天明の飢饉、幕府の国役などによって百万両程度の借金ができ、遂に寛政2年には、向こう10年間15万石の格式で諸事節約を命じた。翌3年と4年は大豊作で江戸の米相場高直で50万両の大利潤を挙げて、享和3年までの借金もだいたい片付いた。 ところが、文化元年また米価下落、その上に上記の蝦夷地警備と海岸防備に諸災厄で、臨時出費がかさみ、文化9年には40万両程が借財となって残った。文化5年の家臣貸上金、7年の節倹令などで打開を図る。文化9年、あまりの滞借ぶりに蔵元升屋平右衛門もさすがに融通を渋りだした。出入司が大坂に赴き七重の膝を八重に折って頼み入り、向こう3年に必ず返済を約してひとまず落着。しかし、幕府下命の日光山本房修営の融通などで文化14年までに新借財も36万両に達し、再び財用方が上坂し、諒解運動。ようやく20万両だけは30年賦償還、残る15万余両は5カ年で返済することで協約が成立。大藩の信用も地に落ちた感があった。 片倉小十郎村典(村嗣)の財政意見書(文化12年10月)によると、当時の御領内惣高101万721 石余。これより知行高57万9693石余及び支藩一ノ関田村侯分を差し引いた残りが、御蔵入高39万9450石余となるが、これから四公六民による百姓作得米を控除し、物成(年貢)御蔵入高をはじめ御家中召上金穀、御分領諸役運上、幼少長病役、御塩方利潤、江州常州總州物成等を合計し、経常収入は、米7万94万石余、大豆4467石余、金5万5321両。 これに対し歳出は、玄米扶持、切米金穀として微禄者への給与が米4万7357石余、金1万2450両余、役料が米1227石、金2200両余。 差し引き残りの米2万1710石余、大豆4467石余、金4万658両をもって、国元を初め江戸京大坂の三都経常費に充てねばならぬ勘定だ。この経費見込みが、米1万1830石、大豆380石、金7万7640両とあるので、結局これを控除すると、米では僅かに9880石余、大豆4080石しか余らず、金では3万6980両余を不足する。米大豆を見積もり換算して1万6、7千両を除くと、概算2万両、というのが歳入不足となる。 しかし、この数字は経常費予算であり、臨時支出や借金返済を含んでいない。片倉村典もこれを認め、買米の利益では歳入欠陥の補填も難しく、さらに旧債の利息にも追いつかない。毎年借財が増加して最早愚慮も及ばない、と敏腕の国老も弱音を吐く。その上で、寛政2年の格式下げの破綻財政に「障子一重と申す御時節」と記している。 この財政不如意の折、豪華を極めた藩主の参勤交代も極力緊縮し、文化12年2月の参府の際は儀衛の半分を減らしたと記録されている。次いで齊義、齊邦の文政年間も同断で、先代の借金の上に、二度にわたる関東諸川修治命で20万両に近い工費を費やし、財用はますます逼迫した。文政6年から10年頃までの予算概説書も二、三あるが、この年代も経常歳出入で以前1万両ないし2万両の歳入不足を生じ、その他の欠陥を加えると経理難となり、買い米利潤にも頼れず、借金に頼った点は同じ。 当時の江戸の風評では三百諸侯で勝手元の行き届いているのは、仙台様を初め、細川、土佐、阿波、丹羽、上杉の諸大名とされた。薩摩は屈指に漏れたという。しかしその実は上記のような困窮財政であった。 藩の御菓子司の大町一丁目明石屋惣左衛門が文政4年に藩に出した文書では、数十年前の菓子代まで滞借したらしく、明石屋がいくらでも良いから枉げて支払って貰いたいと出願している始末だ。歴代藩主が将軍に献上した自慢の塩瀬饅頭だが、仙台藩の内情を示すエピソードである。 ■関連する過去の日記(藩政改革関係) 秋田藩佐竹義和の改革(07年12月21日) 秋田藩佐竹義宣の改革を考える(07年12月19日) 上杉鷹山の知恵袋 竹俣当綱(07年1月17日) 仙台藩の経済と財政を考える(1 藩札)(06年7月25日) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.01.03 14:56:28
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