カテゴリ:宮城
宮城県の村井知事は特別名勝松島について、めざしていた世界文化遺産登録を断念することを明らかにした、と報じられている。08年に暫定リスト入りが見送られ、再検討を続けていたが、登録は難しいと判断した。大橋松島町長は、冷静に受け止めているものの(毎日)、登録されれば外国人を招くのに非常に大きな要素となっただけに残念がっていたという(読売)。一昨年のリスト入り見送りで断念の方向は見えていただけに、何故今さら、との感もあると不満を口にした(産経)、とも報じられている。
現実問題として、世界遺産登録は実現が極めて難しくなっており、断念は仕方がない。かりに登録となれば、さまざまな効果が期待されることからすれば、残念との受け止め方も、これまた頷ける。 しかし、考え方を改めて行かねばならない。あきらめが肝心、ということも勿論あるのだが、そもそも世界遺産に登録されなければ一流の観光地ではない、などということは全くない。しょせん人様が(たぶん西洋中心の価値観で)決める話であって、選ばれなくても別に気にすることはない。堂々と松島の美しさをPRしていけば良いだけのことだ。登録されたら世界から人が集まるのに、という仮定法の恨み節は、やめよう。登録されてもされなくても、観光地としての主体的な努力というのは自ずとあるはずなのだ。努力とは、何らかの権威を勝ち取ることが中心にあるのではなかろう。ギラギラした派手さは要らないから、日々の営みそのものを、しっかり、良心的に、長く続けていることに尽きるのだろう。 いつも思うのだが、松島の良さは、当然ながらその景観であって、施設型のエンタテインメントではない。かつて司馬遼太郎(記憶違いかも)が、竜の形をした極彩色の派手な遊覧船をさして、興ざめで良くないというようなことを書いていた。 政宗が寺を再興し、芭蕉が絶句し、アインシュタインが名月を観賞した、天下一の名勝だ。自然の美しさを敬い、畏れ、自然の中に足を運んで体感するのが本道であって、それが文字通りの観光だろう。何も、竜の形の船や、豪華絢爛なホテルが必要なわけではない。もちろん、人を楽しませることは大事だし、ぜひ努力をしていただきたいが、本道を違えてはいけない。松島の主人公は、松島だ。 率直に言って、縄文の原風景という「普遍性」の打ち出し方は、私にとっては不自然だった。たしかに、古来、国府多賀城や塩釜神社などと結びついて、中世には瑞巌寺など、松島の持つ文化的価値は非常に高いものがあると思う。だが、文化の衣を無理に強調する必要もない。世界遺産なる制度が何時から始まったか知らないが、大自然の美しさは不動で(何百年もすれば松島の形は変わると言われているが)、これに比べれば、登録するとかしないとか歴史の中で小さなノイズだ。 誤解を恐れずにあえて言えば、宮城県民の悪いところとして、他力本願で、自分で切り開く意欲が高くない。世界遺産はダメだ、水族館もなくなる、やれ不況だ、やれ新型インフルだ、客が減ったぞ。行政はどうしてくれる、政治家は何をしてくれる。日本三景の名が泣いているぞ、などなど。やれやれ、だ。 では、地元は一体何をしてきたのだろう。これもあえて悪く言わせてもらうのだが、料金ばかり高く、商店は客引きでイメージを悪くして、結局もう行きたくない観光地だなどと言われてしまう。観光の一般に言えることだが、突飛な施設やイベントなどが観光地の中心的な価値を持続的に担うはずはない(そういう「観光地」も有り得るけれど)。永続すべきは、宿泊施設、飲食施設のもてなしの心、観光ガイドなどきめの細かくて多様な観光ニーズに応えてくれる体制、すなわち人の営みだ。これも突飛なことが必要なわけではないし、今の2倍の汗を流せということでもない。毎日の地道な営みこそが重要だ。マックス・ウエーバーではないが、日々の商売を誠実に続けることが、観光地全体の価値を高めていくと思う。 松島には、何より永続する自然美がある。これほど強い観光地はない。あとは、地元の人の営みだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.02.20 08:27:34
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