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2011.01.29
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カテゴリ:宮城
牡鹿半島にある石巻市鮎川は、「鮎川の捕鯨か、捕鯨の鮎川か」とうたわれた鯨の町だ。

1 近代捕鯨と県外資本

1906年(明治39)4月、東洋漁業株式会社(山口県下関)が鮎川字向田に事業場を開設し、金華山沖で捕鯨をはじめた。この会社は、1899年創立の日本遠洋漁業株式会社(山口県仙崎)を前身に、1904年にノルウェー式捕鯨を導入して創立された会社である。

ついで1907年11月、土佐捕鯨合資会社(高知県奈半利)が、1908年には花伊水産株式会社(和歌山県串本)と長門捕鯨株式会社(山口県仙崎)がそれぞれ鮎川に事業場を設ける。鮎川に近い荻浜にも、1907年に内外水産株式会社(大阪)と大東漁業株式会社(高知)が、1908年に帝国水産株式会社(神戸)が事業場を開く。さらに、1910年藤村捕鯨株式会社(奈半利)が十八成浜字清崎に、大日本水産株式会社(東京)が小淵字走りに、開設する。

この間、1909年5月に、東洋漁業株式会社、長崎捕鯨合資会社(長崎)、大日本捕鯨株式会社(東京)、帝国水産株式会社が合併し、東洋漁業株式会社(大阪)となり、東洋漁業鮎川事業場は、東洋捕鯨鮎川事業場となり、帝国水産荻浜事業場もここに統一される。東洋捕鯨は、まもなく東海捕鯨(千葉県館山)と岩谷商会捕鯨部(東京)を買収し、1916年には紀伊水産、長門捕鯨、内外水産を合併し、これらの事業場を鮎川にまとめる。なお、この年、大東漁業が荻浜事業場を紀伊水産鮎川事業場跡に移し、また、大日本水産は小渕事業場を閉鎖する。

2 仙台藩捕鯨の前史

こうして金華山沖近代捕鯨の基地としての鮎川が県外資本によって確立するが、前史はある。

文政年間、仙台藩養賢堂学頭の大槻清華は「鯨志稿」を著し関心を示す。天保8年(1837)仙台藩は捕鯨取開方を設け、その主立(おもだち)に、牡鹿郡狐崎組大肝入平塚雄五郎と桃生郡大須浜大肝入格阿部源左衛門を命じた。阿部は同年、銛を用いて4頭を仕留めているが、安政6年には他5名と共に鯨蝋製造のため捕鯨を出願している。

明治20年(1887)仙台区の村上国三が自作の捕鯨銃で1頭を捕獲したが資金不足で頓挫。このあと田代の阿部久八郎、渡波の浜谷兼兵衛、仙台の石川進らの捕鯨計画があったが実現せず。

東洋漁業進出直後の1906年10月、寄磯浜字前浜の遠藤栄四郎が金華山漁業株式会社を設立するが、アメリカ式捕鯨法を採用した同社は、1907年に260頭を捕獲し鯨油280石を生産。しかし、ノルウェー式に技術が及ばず、他県資本の進出会社に後れを取って、1916年遠藤の死に伴い捕鯨から撤退する。

3 鯨肥製造業の成立

鯨上がると七浦枯れる、と言われ、他県資本の捕鯨進出に対して、鯨の解体による地先海面の汚染を恐れて反対の動きもあった。しかし、鮎川村長和泉恒太郎や鮎川漁業組合幹部(鈴木吉松、岡田菊之助、和泉太三郎)らが説得に努め、また東洋漁業が村に年300円を寄附することで反対派も納得。寄附金は鮎川小学校の基本財産とした。

しかし操業により鯨骨や内臓が事業場から海に投棄され、海草や貝に付着したことから反対派の心配が現実となった。1907年(明治40)6月下関から来た小林惣太郎が鯨皮から鯨油とゼラチンを製造する工場をつくり、石巻の松田庄助が鯨肥工場を建てたことで事態は好転。1908年には和泉恒太郎が村長を辞め鯨〆粕などの肥料売買に乗り出したのを手始めに、岡田菊之助、鈴木亀吉、岡田宜太郎らが続き、空き地や海岸を埋め立てて肥料工場を建設し、鯨肥の製造販売を開始することになる。1919年までに、鮎川から十八成浜にかけて28業者が誕生し、活況を呈した。

4 捕鯨独占と地元

釜石に一時事業場を移していた土佐捕鯨株式会社は、1928(昭和3)年、十八成浜に進出していた藤村捕鯨を買収して戻ってくるが、1934年には大東漁業を合併してその鮎川漁業場を利用することになる。1937年同社は株式会社林兼商店捕鯨部(下関)と改称。

東洋捕鯨は、1934年日本捕鯨を改称、後に共同漁業、1937年には日本水産株式会社となる。さらに、1937年に極洋捕鯨株式会社(東京)が設立される。この会社の鮎川での操業は戦前にはないが、いずれにしても、捕鯨を独占するビッグスリーが登場したことになり、南氷洋での捕鯨も始まる。

地元では、1923年(大正12)に十八成浜の後藤善三郎が林兼商店の出資を受けて遠洋捕鯨合資会社を設立、1930年に遠洋捕鯨株式会社。また、1925年鮎川と十八成浜の鯨肥業者30人が出資し、原料確保を目的に鮎川捕鯨株式会社を設立。鮎川字田の浜に事業場を置いたが、1937年に捕鯨船などをスマトラ拓殖株式会社捕鯨部(東京)に譲渡。

鮎川捕鯨株式会社の内部はもともと原料需給を巡って複雑で、社長和泉恒太郎、安部儀助、稲井商店などはマルハ土佐捕鯨株式会社に、監査役和泉総之助らは東洋捕鯨株式会社に、十八成浜の業者は遠洋捕鯨株式会社に、それぞれつながりを有し勢力が拮抗してまとまりが悪かった。1936年には和泉哲之助を組合長とする鮎川肥料組合が設立され、日本捕鯨、共同漁業(旧東洋捕鯨)から原料を得て鯨肥製造を進め、また1940年には、日本水産(旧東洋捕鯨)から原料を受けてきた業者が鮎川肥料合同株式会社を設立。この間、土佐捕鯨、林兼商店の系列化の業者はこの動きから排除された。

5 戦後

戦後、日本水産株式会社は統制会社から社名を回復し、林兼商店は大洋漁業株式会社(東京)と改称する。大洋漁業は1946年に遠洋捕鯨株式会社を合併。また、極洋捕鯨株式会社は、1950年名称が存続していた鮎川捕鯨株式会社を合併し鮎川に進出。おりから南氷洋捕鯨が本格化した時代で、鮎川からビッグスリーの南氷洋捕鯨船団に乗り込む者も多かった。

こうなると交通の便が悪い鮎川は地の利を失い、1949年頃から女川町石浜に移転を考えていた日本水産は1950年に移転をはじめ52年には東洋漁業以来の鮎川事業場を廃止した。

この間、46年には近海小型捕鯨も開始されたが、1947年に許可制となり船も30トン以下に制限された。1954年には、宮城と和歌山両県の関係者で日本近海捕鯨株式会社(東京)が設立されたが、まもなく大洋漁業の傘下に。1956年には日本小型捕鯨組合が、58年には鈴木良吉による北洋捕鯨株式会社が設立されたが、近海捕鯨は資源枯渇で衰退を迎えていた。

1965年極洋捕鯨が鮎川から撤退。1970年、日本近海捕鯨株式会社が日本捕鯨株式会社と改称。71年には外房捕鯨株式会社(千葉)が極洋捕鯨鮎川事業場跡に進出。

1976年には、ビッグスリーが捕鯨部門を切り離し、日本共同捕鯨株式会社を設立。1977年大洋漁業は鮎川事業場を閉鎖し、従業員を日本捕鯨に移す。同年、日本水産も女川事業場を閉鎖。

1982年IWC商業捕鯨全面禁止決議で、88年日本は商業捕鯨から撤退。鮎川の捕鯨基地としての歴史も終焉を迎えた。


■参考文献
 大石・難波編『街道の日本史7 平泉と奥州道中』吉川弘文館、2003年
 (岩本由輝執筆部分)





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最終更新日  2011.01.29 18:52:46
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