7025044 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2011.10.04
XML
カテゴリ:宮城
仙台から日本橋まで江戸道中69次の振り出しの宿場長町が出来たのは、慶長17年(1612)12月とある(石母田文書)。仙台開府から10年後のことで城下町割りに当たった金森隠岐が政宗公の命令で計画し、国老石田豊前の監督で完成した。

翌月の慶長18年1月には中田と増田の宿場が同時に出来た。これは奈良時代から名取平野の山際を通過する東(あずま)街道のバイパスであったが、もともと竹駒神社の門前聚落岩沼以北に道が開けていたと見え、慶長5年7月、関ヶ原の前哨戦に政宗公が白石城作戦のとき、北目城を前進基地として21日主力を率いて同夜岩沼に宿営しているから、大縦隊が通過するほどの道路はあったと思う。

城下の人馬継ぎ立て所の北目町から長町へ1里4丁、長町と中田間は34丁とある。宿場は前田村のうちで、中田は宿場名であったが、後に前田と中田は別々の字名となり、北から、長町、中田、前田、増田の道順となった。これを昔の人は、長町と前田の真ん中だから中田、中田の前田から前田、その先の方に田を増やしたから増田(よみはマシダが正しい)、その余りが上余田、下余田だ、などと説明した。

寛永2年忠宗が初めて国入りの時、政宗公の命令で重臣一同は中田まで出迎えたが、以後歴代藩主が江戸参勤から帰国の際には中田に出迎える慣例となった。

仙台藩主江戸参勤の道中儀衛は3500人、三百諸侯第一の豪勢さであった。仙台城出立は七ツ立ち(午前4時)で、先頭の一隊が中田の宿場に着到すると、命令がなくとも行列は先頭から次々に停止し、沿道の民家に入って朝飯をしたためる。この時、藩主の位置は長町川(広瀬川)左岸、街道に面する赤壁楼と称する茶屋で、藩主以下一門国老の面々はここで朝飯をとる。

沿道の家はみな三角形のツマを表街路に向け、その下に小前(こまえ)と称するひさしをかけて柱で支えた。土間を吹き放しとして、小前下ともコマヤとも言った。土間の正面はレンジ格子、右に並んで表がシトミ戸、内が障子の戸の口を開き座敷へ通る。ここから奥へ中間、台所、勝手、納屋、閑所とつづき、座敷が街道に面するところから、お供の侍、足軽はわらじをぬげば、すぐ座敷に上がれるようになっていた。昔は仙台市中の商家も店ガマチのそとは、このように吹き放し土間の小前下になっていたもので、さしずめアーケードの元祖みたいなものであるが、中田の表通りにはこういう民家がまだまれに残っていて、見るからに昔のゆったりしたおおようさをしのばせている。

■三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』宝文堂、1982年





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2011.10.08 10:10:44
コメント(0) | コメントを書く
[宮城] カテゴリの最新記事


PR

フリーページ

バックナンバー

日記/記事の投稿

カテゴリ

コメント新着

おだずまジャーナル@ Re:仙台「6時ジャスコ前」の今むかし(11/14) 仙台フォーラスは来月3月から長期休業。再…
クルック@ Re:黒石寺蘇民祭を考える(02/18) ん~とても担い手不足には見えませんけどネ…
おだずまジャーナル@ Re:小僧街道踏切(大崎市岩出山)(12/11) 1月15日のOH!バンデスで、不動水神社の小…

お気に入りブログ

【望子成龍】-Wang Z… sendai1997さん
おいしいブログページ dnssさん
地方暮らしが変える1… かじけいこさん
徒然なる五星亭 五星亭さん
野球!BASEBALL!!e-EA… barbertakeshiさん

プロフィール

おだずまジャーナル

おだずまジャーナル

サイド自由欄

071001ずっぱり特派員証

画像をクリックして下さい(ずっぱり岩手にリンク!)。

© Rakuten Group, Inc.
X