カテゴリ:宮城
(前回記事「昭和27年宮城の教育委員選挙」(2012年5月12日)に続く)
妙な経過で成立した市町村の教育委員会だが、選挙直前まで公選ではなく任命制にすべきの声が出たくらいで、発足に当たっては貧弱陣容で期待できないとされ、教育長にその人を得るのは困難で、予算編成が試金石と言われた。 11月1日発足当時の新聞は、前途多難な地方教委の題で次のように報じた。教育長の確保は難しく、専任職員を置くことすら塩竈石巻古川の3市を除けば2、3の町村に過ぎない。従来の学事係が兼務するのが精一杯で教委は無力化するしかない状況。選ばれた委員諸公にしても、資質は期待ほどではなく人事権をたてに暴言を吐くものも伝えられ、庁舎に至っては独立の庁舎をもつものは一つもない有様。委員報酬については成算もなく、町村当局の悩みの種である。教育施設の不完全をいかにすべきか、不十分な教員組織の充実はどうすべきか、教員異動について県教委との調整をいかにすべきか、そもそも予算捻出はどうか、など、行く手の困難は多かった。 県教委はこの間、あれこれ指導助言を加えてみるものの、裏付けの財源は国の措置に待つより他なかった。伝えられるところによると、文部省要求の地方教委分の平衡交付金は39.8億円だったが、大蔵省査定で10.8億円と削減され、委員報酬単価は市4,500円、町村800円、教育長が14,000円では優秀な人物を得ることは困難である。助役の片手間で教育長を兼ねるのでは所期の目的達成にはほど遠い。 11月末に第4次吉田内閣の重要施策が発表される。文教刷新の一項があったが、肝腎の内閣が不安定で、池田通産大臣が不信任され、広川農林大臣の非協力事件があったり、独立初年の国会は安泰ではなかった。28年予算審議の最中、吉田首相のバカヤロー事件から3月14日解散となる。4月総選挙で第5次吉田内閣が成立するが、自由党は第1党ながら過半数に足りず政局はなお混迷を続けるのである。 とにかく独立第一年は騒然たる中に進んだ。与野党対立は講和条約と安保条約に絡んで妥協のない抗争を募らせるのみで、独立後の対内諸施策については、逆コースの名において野党はことごとく反対。総選挙を重ねても革新の側に国民の多数は目を向けようとしない。 国会の状況と異なり、宮城県では革新系に擁立された宮城新知事となったが、赤字財政から新知事の行く手は苦難が予想された。11月上旬には県人事委員会が現在9,451円を12,290円にアップの勧告。財源難の県は悲鳴を上げ、教員組合は16,000円ベースを要求したが、結局ない袖は振れず、宮城知事擁立の組合関係者としても闘争の限界があった。 昭和28年は学制頒布80周年の年でもあったが、地方教委制度については、中教審答申を見ても、六三制堅持とともに、教委制度は民主的改革の一要項であり教育の中立性自律性の樹立を意図するもので、その長所を発揮させたいとして、地方教委の改変する積極的根拠はないと断じ、委員選挙方法に検討を要するとした。もっとも地教委1周年を迎える秋になっても、問題点は依然として残り、廃止論も根強かった。 ■出典:宇野量介『続 戦後の宮城教育を語る』宝文堂、1970年 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.05.13 18:53:16
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