カテゴリ:東北
道路建設など土木県令として名高い三島通庸。大久保利通に請われ酒田県令、やがて明治9年鶴岡、置賜両県の合併で初代山形県令となる。
土木事業のみならず、万日河原に山形県庁を新築すると、その隣に千歳園を設けて和洋果樹の試験栽培を行った。また、園内に水力機織所を設けて機械工業による山形木綿の発展の契機を作り、さらに蚕糸業振興のため覚成寺に製糸工場を建築した。 他方で、山形城内二の丸を牧場とし、城内で養鶏城を設け、さらには旧城の堀に鮭卵を放って育てた幼魚を県内に放流するなどした。 山形の風習として瓦ぶきの家が少ないと見ると、新しい丈夫な焼き方を指導して、三島式瓦を官庁や学校に使わせ、一般民家もぼつぼつ使用するなど、おせっかいなほどに随分と積極的な意気込みの県令であった。 教育面では鶴岡時代に朝暘学校を新築し、酒田に琢成学校、米沢には興譲館を再興した。山形県令になると県庁前に師範学校を新築、明治15年には山形中学を設立した。 衛生面では現在の山形市立病院済生館である。この病院は明治7年の創設。明治6年に天童の富豪佐藤伊兵衛の愛児が病死したので、医学の未熟を嘆いて山形の長谷川吉郎治と相談して天童に私立病院を設立したが経費がかかるので、県参事関口隆吉や山形の医師中原葦州男、原田元民(王ヘンに民)、上山の梅津清中らと協議して山形に移転。七日町の元本陣を借り受け山形県公立病院と改称し、県から毎月百円の補助を受けた。 山形の細谷良民(王ヘンに民)、高橋文信、天童の武田玄々、米沢の藁科松伯、中条言休、西野佐久、堀田亮之輔などの医師が一週間交替で診療した。そこも手狭になったので大手門側に本建築をしたが、三島県令が赴任すると、土木趣味が出てきて院長長谷川良六を上京させ、東京の大学医学病院、横浜英国海軍病院を視察させて大規模な新築設計をさせた。 明治12年1月に13万円を投じて大病院を建設。高さ20メートルの三層楼で明治初年の建築様式の粋を極めた。太政大臣三条実美の命名と揮毫による「済生館」の額を掲げる。三島はただ形を整えるだけではなく、オーストラリア人ドクトル・フォン・ローレンツを医学寮教師兼済生館教頭として招へい。この時、済生館は公立から県立となり、明治21年県会の決議で県営を廃止民営となり、明治37年に現在のように市立となった。 ■岡田益吉『東北開発夜話』金港堂出版、1977年 から ■山形市立病院済生館さんのサイト 病院の概要 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.01.06 11:34:45
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