『夜と霧』(フランクル)を読んだ。精神分析医@ユダヤ人強制収容所というなんとも貴重な体験記。50年以上に渡って世界中で読み継がれるベストセラー。内容が深すぎて考えることがいっぱいなのだが、ひとつの統計として納得したことを挙げると、収容所の死者数がクリスマスから新年にかけてが突出していたことがあった。クリスマスシーズンに人々の心に強く刻まれる開放願望(妄想)がかなわないと悟った途端に抵抗力が落ちて発疹チフスでばたばたと倒れていったのである。人間は大きな希望を持てば持つほど困難に打ち克っていくというケースはまれであり、案外くよくよしている人がくよくよしつつ生きていたりする。期待が裏切られて喪失した瞬間に人間は危機に陥るらしい。もちろん生きる意欲を無くしてしまった人は論外なのだが。収容所内においての生死が本人の努力とはまったく関係無いところで成り立っている状況下でフランクルは生きる意味について考えつづけた。正確にいえば収容所にいる間はゆっくりジンセイについて考える余裕もなく、開放されたあとから死ぬまで考えつづけた。結論を言えばどんなジンセイにも意味があるという、至極あたりまえな考えとなったのだが、フランクルの考え方は、文章以上に私には難解である。じつをいうとよくわからない。読み進めながらウンウン、そうそう、と頷きつつ、読後感として『なんか、わかったような、わからなかったような。』で、アマゾンへとサイトを飛ばしてフランクルの本をまた一冊購入してしまうのである。これが、私自身のジンセイのパターンだ。
「ウチのおふくろの介護をお願いしたいんだけど…」とある時、電話があった。毎日のようにある介護相談。親は80歳の母と50歳の息子。二人暮らし。さっそく訪問だとばかりにアポイントをとろうとすると、午前中は息子の体調が悪かったり、息子としては我々に早く来て欲しいのだが、母が頑として抵抗している様子という妙な電話。細かい流れはもう忘れてしまったが、このケースにはすでに保健所が入っていた。息子が統合失調症であったからだ。母親は栄養失調で足腰が立たず、1日に2回、這うようにトイレへ行く。食事や母の介護については息子が行っているが、そもそも息子自身が精神病で通院しているので介護者としては難しい。このケースについて保健所へ照会してみると若い保健師が担当していて、通常は2名で訪問しているケースということだった。(安全のためか)それじゃ、私と同行しましょうということとなり、支援センターと保健所でタッグを組むこととなったのである。(この項つづく)
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最終更新日
2005年02月15日 03時40分46秒
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