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人生の大ピンチにおいて、ちょっと思い出してみた。私はいったいどんな人になりたかったのか。幼少の頃の記憶はない。親に聞けばわかるだろうが聞かない。中学生の頃は新聞記者、雑誌編集者(なぜか文芸春秋)になりたいと思っていた。また、私は小学生の頃よりテレビを観ていて、本編よりもコマーシャルに興味を持っていた。サントリーのCMが好きで、『角』のCMが好きだった。開高健が、アウトドアでシャケを焼きながらチビリチビリと飲んでいる編。サミー・デイビスJr.の♪チンチンチクチクもよかったな。
高校生になると『不思議大好き。』とかの糸井先生が登場してコピーライターになりたいと思った。80年代の広告は文化だった。一行のキャッチフレーズ、1枚の駅張りポスターが、商品や企業のイメージを作り上げていくサマが痛快だった。漠然と、電通や博報堂に行けば、そんな楽しい作業ができるのかと夢想していた。 おっと、ここまで書いて私は小学1年生次に書いた作文を思い出した。『東芝レコードにいきたい』と社名まで具体的に書いていたのだ。ビートルズ解散2年目くらいの頃だ。父は叔父をさして『○○はビートルズに食わせてもらってるんだもんな(笑)』とよく言っていた。これはほぼ事実といってよい。レコード会社への憧れは大学まで続く。仕事内容をろくに知りもせずに。 コマーシャルが好きだった私は例えばレコード会社であればLPの帯の文章を書きたいと勝手に思っていたのだ。帯が気になる野郎であった。 漠然と夢を持ってはいても実現のための努力をすることを私はしなかった。成りかたがわからなかったのである。何をどう頑張れば広告マンになれるのかが明確に書かれた書物などなかったのである。みんな「なんとなくなった。」とか「仕方なくなった。」そして「こんな仕事、やらないようがいいよ。」という事だった。 私の実際の就職活動は、親のコネで損害保険会社を受けるが、受験者の中でほぼ最低、それも数学の点数が著しく低いという結果を出し、コネがあろうとさすがに採用できないということであった。ここで親父は私の今後を諦めたようだ。あとは西友だのそごうといった流通業界を何社か受けるがダメ。入れそうな会社はこちらが行きたくないという舐めたところも大いにあった。もう、何がやりたいのか、自分でもよくわからずに活動していたと思う。ある製薬会社の人事課長に、「あと重役面接に出てくれればいいよ。」という会社がひとつあったが、私は当日、なぜか行きたくなくなってぶっちぎった。私の出身大学の先輩が一人として本州にいなかったのである。家族の事情を勘案してやめた。もう自分の行動がよくわからない。 (現在がまたそんなかんじだ) 結局、岐阜のアパレルメーカーに就職するがついて行けずに10ヶ月で退職した。この時、私はすでにうつ病(軽度だが)だった。途方にくれてビーイングを読んでいたら、そのビーイングのページを作っている会社が求人していた。『はっ、はずかしがらずに応募してごらん。』というコピー1行で応募し、採用された。入ってからわかったのだが、たとえ100人応募があってもあるハードルを越えていないと一人も入れないくらい難度は高かったらしい。(たぶん数学は損保の時と同様であったと思う)国語の成績がよくて1次を通過したとのこと。この会社は徹底した適正主義なのだ。ユング式の心理テストもけっこうな分量だった。私は『心がピュア』という項目の偏差値が85くらいあったらしい。私の上司は、この偏差値85がちょっと懸念になったようで悩んだらしい。とにかく2次に進み、作文が課題として出た。私は「トリスの犬」のCMの素晴らしさを書いた。この作文と職員も交えての面接で、合格になった。「トリスの犬」のCMが人生を大きく変えた。 仲畑貴志さんが作ってカンヌでグランプリをとった、トリスウィスキーに出てくる情けない犬。夕焼けの商店街をとぼとぼ歩いたり、雨宿りする雑種の野犬。最近、オフクロに好きなCMはなんだい?と尋ねたら、このCMを挙げた。テレビコマーシャルで泣きそうになった、そして私の人生に影響を与えたCMだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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