人間至上主義。私の根底はココにある。人間さまを神様の次にえらい生き物とする考え方である。『神様の次に』ココ、重要。中東の神様は「豚を食べてはいけない」とおっしゃった。よって中東の人間さまは豚をたべない。インドにおいては「牛は神様につながる尊い生き物」ということで牛が道端にごろごろいても誰も処分しない。
私の関心は、人間至上主義といえどもなぜ禁忌をつくるのか、というところにある。私は信仰という宇宙の作り方に関心が行くが、ケアマネ仲間のEさん(男性)は「やっぱり、当時の衛生状況と関連があるんじゃないですかね。」と科学的である。Eさんはある書物を読んで、殺生についてつきつめるとカニバリズムに到達するらしい、と物騒なことを淡々と述べていた。
「クジラを食べるのはかわいそう」とか、「犬を食べる文化は民度が低い」といったいっさいは、私はすべて蹴っ飛ばしたい。世界中でおそらく三分の二くらいを占める、1日を2ドル以内で暮らす人たちは、己の信仰する約束事を守っているだけのことであろう。我が日本の場合は仏教が生活に深く入り込んでいたので、供養するという観念があり、たとえば鯨が上がる場所には鯨神社があって、ある意味、食用やもろもろに使用する鯨を神様からの贈り物として奉っていた。こういう発想が、私は好きである。
昔の話だが、フィリピーナのおねえちゃんと店外デートした。葛西臨海公園の水族館に行ったのだが、亜熱帯というカテゴリーの水槽を鑑賞しながら、私は色鮮やかな魚たちだと鑑賞していたが、おねえちゃんは「ア、コレシッテル!コレ、タベラレル。アノサカナモタベラレル!」とほぼ魚屋の水槽を見るがごとくであった。魚を鑑賞するという概念が彼女にはなかったわけで、デートは失敗に終わった。住宅街を歩いていても、立派な犬が鎖につながれている家をみて、「フィリピンダト、ドロボウニ、トラレテタベラレチャウヨ!」と話がそっちにいく。フィリピンってうかうかとペットの犬すら飼えないところらしい。
それを思えば、日本は暮らしやすいよい国である。野良猫がいる。人間が人間を食べることもない。「こんにちは」の次に「ごはん、食べた?」が挨拶となっている国では動物愛護団体を作る余裕もないらしいのだ。
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