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2020年09月07日
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デクエヤル国連事務総長と会談する鈴木善幸首相(第2回軍縮特別総会)

鈴木 善幸(すずき ぜんこう)
1911年〈明治44年〉1月11日生 - 2004年〈平成16年〉7月19日没
位階は正二位。勲等は大勲位。

郵政大臣(第15代)、内閣官房長官(第26代)、厚生大臣(第43代)、自由民主党総務会長(第15・17・23代)、農林大臣(第48代)、自由民主党総裁(第10代)、内閣総理大臣(第70代)などを歴任した。

■前半生
岩手県下閉伊郡山田町のアワビ、スルメ漁、水産加工業を営む網元の家に生まれた。また鈴木家は屋号「黒米屋」と呼ばれる米屋でもあった。父の善五郎は日露戦争に従軍した際の戦傷で漁に出られなくなったこともあり、男手の無かった妻・ヒサの実家の商売を切り盛りしていた。岩手県立水産学校を経て東京水産大学における前身の水産講習所(現・東京海洋大学)に入学。肋膜炎を患い1年休学し実家での療養中に昭和三陸地震津波に遭遇し、地元における被害の大きさを目の当たりにしたことが、後に政治家を志すきっかけとなる。学生時代に弁論大会で網元制度の前近代性に疑問を投げかける主張を行ったことがあり、就職時に思想傾向を理由に不採用になったこともある(共産主義思想とみなされた)。水産講習所卒業後、日本水産界の総帥と言われた大日本水産会会長の伊谷以知二郎の秘書となり、全国漁業組合連合会、岩手県漁業組合連合会に勤務したのち、中央水産業会企画部次長を務めた。太平洋戦争中の1944年(昭和19年)には秋田県の歩兵連隊に赤紙召集され3ヶ月の訓練を受けるも、分隊長の「君は水産物の供出とか集荷とか、水産の大事な仕事をしていたようだから軍隊よりそちらで働く方がお国のためになる」という計らいにより、召集を解除され元のポストに復帰する。

■議員としての活動
1947年(昭和22年)に日本社会党から第23回衆議院議員総選挙に出馬、初当選。水産常任委員会の委員として、水産庁の設置をはじめ漁業法や水産業協同組合法の成立等戦後の水産政策に大きな役割を果たす。後、社会革新党に移る。しかしカスリーン台風、アイオン台風襲来により地元が大きな被害を受けると復興のため奔走するも弱小政党だった社会革新党の議員ゆえに何も成果を残せない現実に幻滅、ついに次期総選挙への不出馬を明言するに至る。

一方で支持者からは鈴木の与党移籍を求める声が高まり、同郷の先輩代議士小沢佐重喜の引き合いで吉田茂率いる民主自由党に移り、以後保守政治家となる。保守合同後は池田勇人の宏池会に所属。池田に側近として可愛がられたこともあり、その後はトントン拍子に保守政界での地位をのぼりつめる。1960年第1次池田内閣の郵政大臣として初入閣。第3次池田内閣改造内閣では内閣官房長官に就任するが、すぐに池田首相が病気で退任を受けた第1次佐藤内閣で前内閣のメンバーが留任させる居抜き内閣を取る中、官房長官人事のみ佐藤派の橋本登美三郎を就任させたため、退任となった。その後、改造内閣では官房長官退任となった代わりとして厚生大臣に就任した。その後、福田赳夫内閣で農林大臣などを歴任。党総務会長を10期務めるなど、裏方で力を発揮する調整型の政治家とみなされていた。『三木おろし』では大平派の参謀として、福田派の園田直、田中派の二階堂進らと共に挙党体制確立協議会(挙党協)を主導する。三木武夫の退陣後の『大福密約』でも大平派の大番頭としてこれを取りまとめ、大平正芳が総理総裁になった際には、自民党幹事長に起用されかけたが、田中角栄・二階堂進と関係が近すぎるとして福田派など反主流派が反発し取りやめになっている(斎藤邦吉が就任)。

一方では、盟友の田中角栄と組み、後の三陸鉄道の前身となる国鉄宮古線・久慈線・盛線の開通を進め、また県内の選挙戦勝利の見返りとして国立岩手山青年の家の設置を佐藤栄作首相に働きかけたり、岩手と秋田を結ぶ仙岩トンネル(仙岩道路)の建設、国民休暇村の雫石町への誘致、地元選挙区の岩手県田老町(現・宮古市)にはグリーンピアを建設したり、実施第一次計画では仙台駅までの予定であった東北新幹線を、地元の盛岡駅まで延伸させるよう強い圧力をかけたとされるなど利益誘導による地元還元をする政治家としての側面も存在した。自民党総務会長、鉄建審会長として地元の鉄道網、漁港、港湾、道路、東北自動車道、三陸縦貫自動車道の整備に影響力を発揮した。ただ、早期のインフラ整備は「オリンピックに向けての公共事業が少なすぎる」と、1998年盛岡オリンピック構想を長野に持っていかれた一面を指摘する声もある。

■大平内閣期
自民党総務会長として、日中国交正常化後3度訪中し当時の中国の最高指導者であった鄧小平とも会談しており、第1次大平内閣の1979年5月の会談では尖閣諸島の領有権問題の棚上げと、日中両国による海底資源の共同開発の提案があったという。改革開放論者であった鄧はさらに鈴木に、日本からの政府借款を受け入れたいという旨と、土地を提供するから共同で中国国内に兵器工場を作りましょうという話を持ち出してきた。鈴木は「これには正直言って驚いた。日本としては対米関係などを考えると大変なことで、出来るわけはない。私は、日本は日本国憲法の趣旨から言って諸外国とそういう面での共同の仕事は基本的に出来ないし、考えてない、と即座に断った」「この話は単なる外交上の駆け引きとして出してきたという印象ではなかった。真剣だった。今思うに当時、中国としても軍備の近代化を考えていたんだろう。(中略)日中共同の兵器工場建設の提案を断った代わりに、円借款の件は約束通り実行した。」と語っている。

1980年(昭和55年)5月、社会党提出の大平正芳内閣不信任案の採決が行われた。多数の自民党反主流派議員が欠席したため、不信任案は可決された。これに対抗して大平は衆議院を解散(ハプニング解散)した。しかし大平は選挙中に死亡、選挙は同情票で自民の圧勝となった。不信任の原因となった反主流派は首相候補を出せず、大平派幹部の鈴木が総裁となった。なお、後に鈴木は「カネを一銭も使わないで総裁になったのは、僕がはじめてじゃないか」と述べている。なお、日本社会党在籍経験のある内閣総理大臣としては、片山哲以来であり、社会党在籍経験のある初めての自民党総裁である。明治生まれとしては、最後の内閣総理大臣であった。

■鈴木政権
自民党ではハプニング解散まで引き起こした党内抗争を倦む空気が強かったこともあり、「和の政治」をスローガンに掲げた。財政収支が悪化していた国庫財政を立て直すため、財政改革では1984年(昭和59年)までの赤字国債脱却を目標としながら増税論を抑えながら無駄な支出を削減するという方針を示し「増税なき財政再建」を掲げた。第二次臨時行政調査会(会長土光敏夫)を発足させ、伴食大臣にみなされがちな行政管理庁長官に「ポスト鈴木」に意欲を燃やしていた中曽根康弘を充てる、反主流派からも河本敏夫・中川一郎を中曽根と釣り合うポストで処遇、宏池会からも官房長官に政策通の宮澤喜一を起用し伊東正義・田中六助・斎藤邦吉など有力議員を入閣させる、など人事調整も巧みであった。様々な派閥及び族議員による支出要求に揉まれる中で鈴木は持ち前の絶妙なバランスを生かしながら主流派離脱を抑えながら少しずつ支出の削減を進め、最終的には全派閥を主流派入りさせた上で反執行派閥という存在を事実上無くし、自民党内で究極の「和の政治」を実現した。行政改革方針は後の中曽根行革への道筋を付けることになったが、「和の政治」からの昇華以上に、中曽根行革では新自由主義に邁進することになる。

金権選挙の問題があった参議院の全国区選挙については拘束名簿式比例代表制に改めた。また現職の内閣総理大臣として初めて北方領土と、復帰後の沖縄を視察した。また財政難から月例給の4.58%給与引き上げの人事院勧告の実施を見送り、国家公務員の60歳定年制を導入した。

■鈴木行革
鈴木内閣発足時、国債残高が82兆円まで達しており財政再建は目下の課題であった。1981年3月、土光敏夫を会長とする第二次臨時行政調査会が発足する。鈴木は「昭和57年度予算編成への具体的改革案を今夏までに求める」と臨調に要請し、また日本商工会議所の総会において行政改革に「政治生命をかける」と発言し並々ならぬ意欲を見せた。鈴木の意向を受けた大蔵省では前年度予算からの伸び率をゼロにする、ゼロシーリングが正式に決定された。7月には第二臨調が医療の適正化や行政の合理化を唱えた一次答申を示し、臨調の答申を最大限尊重し実施することが閣議決定された。鈴木はまとめられる省庁の歳出削減事項を一本化した法律にまとめて成立させる方向で、行革関連特例法として10月には衆議院で11月には参議院を通過して成立した。こうした中成立した昭和57年度予算は稀にみる抑制予算となった。

翌昭和58年度予算は原則5%のマイナスシーリングの導入と、臨調の第三次答申の尊重と実施を図ることが閣議決定されたが、世界同時不況の渦中に日本経済が巻き込まれ5~6兆円の税収不足の恐れが出てきたため、1984年(昭和59年)までの赤字国債脱却が困難な状況に直面した。1982年9月16日には「財政非常事態宣言」と言われるテレビ演説を行い、更に徹底した歳出削減と赤字国債の増発で「未曽有の困難」を乗り切る必要があると訴えている。その翌月の10月には鈴木は退陣するものの、鈴木が敷いた行革への方針は続く中曽根康弘内閣へと引き継がれていく。





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最終更新日  2020年09月08日 09時26分52秒


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