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カテゴリ:仏教、神話、哲学
私はあまり坐禅が得意ではない。何故かってまず調身ができてないからだ。毎回ここで躓く。
調身ができてなければ気が散漫にになる。 結果どんなお寺に行こうと無駄に時間とお金を消費するだけだった。だから外には出かけず時々自分の部屋でしてみるんですけどね。 自分の場合右脚が少し短い。これは整体に行った時にそこの先生が教えてくれたことです。 そして右の骨盤が少し前に出ているらしい。その為に右脚が少し短くなっている。 調整すれは両方同じ長さに戻る。 しかし毎回整体に行く程の資金力は持っていませんので、3~4回通って打ち切りました。 しかも整体に行った為に貯金はもう殆どない。 短期間だけ肩こりが解消した成果を以って良い思い出とさせて頂きました。 さて、それが半年前のこと。 今日も坐禅に挑戦してみました。 短い右脚の場所は毎回苦戦する。今回は片足だけの吉祥坐。本当は左脚を上に上げた方がやり易いのだが、これは私のこだわりだ。 姿勢で私の悪い癖は腰を入れて仰け反ってしまうこと。少し前傾姿勢で丁度いい。 仰け反ってしまう理由の一つは、法界定印を手もとに引きすぎてしまうことかもしれない。 なので、思いっきり印を前に突き出した。すると気持ち前傾姿勢になる。 しばらくすると手が疲れてくるので元の位置の戻す。 その時にはもう姿勢は整っているので調身は問題なくなった。 さあここからだ。 次は調息。これはキチンとした方法があるのかもしれないが、今回は息を止める時間を長くして、吐く時にリラックスする感じでした。 通常は長~く息を吐いてゆき、次にゆっくりと息を吸ってゆく。数秒息を止める。そしてゆっくり吐く。吐く時の方が長めだ。呼吸は鼻で行うこと。 しかしこれで今まで上手く行ったことが無かったので、今回のように息を止める時間を長くしてみた。 これが上手くいった。丹田を膨らませたり凹ませたりすることなく、良い調息ができたと思う。 やり方はこうだ。 軽く吸って自然な状態で息を止める。このまま数秒間。肺の空気が圧力となって腸の上辺を圧迫する。 苦しくなる前に鼻から息を吐く。この時肩の力が抜けてリラックスする感じだ。 すぐに軽く鼻で息を吸う。この繰り返しを何度かやる。 すると軽~く息切れしくるんです。 なのでこのサイクルを止めて呼吸が整うの待った。 (はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・・はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・) この間数秒。 フッと集中力の世界に入ったんですよ。 何が変わったって、思考も普通にできるんですけど、雑念に囚われないといいますか。 それまでは視点が定まらずキョロキョロと、ああでもない、こうでもないと苦闘していたのが嘘のように全てが整った感じ。 「ああ、やっと坐禅する人たちと同じスタートラインに立てたな」という感じですね。 曹洞宗の総持寺の坐禅教室に昔行ったことがありますが、自分だけが坐禅できていなかった気がしていた。その時部屋の隅で壁に向かって一人坐禅しているお爺さんを見かけましたが、普段からあの人たちはこういう体験をしていたんだと思いました。 瞑想には向き不向きもあると言いますが、私は圧倒的に不向きなタイプだったと思います。まあ、やっとスタートラインに立てたということで。 しかしこれが「止」なのか「観」なのか分からないんですね。 何も一つに対して集中していた訳ではありませんので。見てるけど、眺めてる感じ。外観に対して囚われなくなったといいますか、見る対象を定めてなんかいませんでしたので。 試しに心の中で真言を唱えてみましたが、これにも特に囚われることはありませんでしたので、多分意味のない行為。でも「唱えている梵字を見るように観想しなさい」と言われたらその内できるようになるんじゃないかと思う。 外界に囚われていない分、イメージを形にするのは多分やり易いのだと思うんです。 ただ「止」なのか「観」なのかが分からない。でも多分自分の入り方は一般の人の瞑想体験と同じようなものなので、おそらくは「止」なんでしょうね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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