もうひとりのお父さんへ
「おじょう、気ぃつけて帰れよ。」おじょう・・・ダンナとお付き合いしている頃、お父さんは私の事をそう呼んでくれていましたね。懐かしく思い出します。息子の嫁になって名前で呼ばれるようになり、折に触れて「お前は実の娘みたいなもんや。」と良く言ってくれました。とぼけた事を言い、しょーもない事をして笑わせ、よく食べよく寝て、本当に楽しいお父さんでした。一旦、「怒」のスイッチが入ると、孫であろうが、他人であろうが「ばかもん!」と大雷が落ちたものですが、私は一度も落とされた事がなかったですね。本当のところ、私も実のお父さんよりしゃべりやすかったし、お(義)母さんよりお父さんと接している方が自然体でいられました。そんなお父さんとこんなに早くお別れする事になろうとは。。またひとり、味方を失くしてしまった。お父さんがこの世を去る数時間前。もう前日からほとんど意識はなかったと思うけど、私が「お父さん。」と呼びかけたら一瞬、右目を薄っすらと開いてくれましたね。あれが最期のお別れのサインだったんですね。入院当初は元気だったお父さん。病院食は口に合わないと言って、おなかを減らしていましたね。家から茶わん蒸しやホウレンソウのお浸しとか水菜の炊いたんとか、よく持っていきました。ぶどうパンをこっそり持っていって、夜中に3個も食べたら血糖値がとんでもなく上がって、二人で看護師さんに怒られましたね。おしっこが思うようにできなくなって、尿瓶で取ってあげたりしましたね。実のお父さんでもそんな事したことなかったけど、何の抵抗もありませんでしたよ。2回目の抗がん剤の後はご飯もあまり食べられなくなって、私の作った小さな小さなおにぎりを2~3個食べるのがやっとでした。それでも私の作るおにぎりを楽しみに待っていてくれましたね。最期の瞬間にほんの少し間に合わず。。。一人で旅立ったのかと思うと悲しくてなりません。でも、眠るような穏やかな顔に安堵もしました。入院してからたったの50日。あれほど家に帰りたがっていたのに、叶えてあげられなくてごめんなさい。気になることもいっぱいあるでしょう。遣り残した事もあると思います。私もまだまだお父さんと一緒に毎日を過ごしたかったよ。まだまだ聞いておきたいこともたくさんあるよ。最後にもっとお父さんと話がしたかったです。今まで本当にお世話になりました。どうぞ、ゆっくり休んで下さい。さようなら、お父さん。10月19日(水) 午後7時10分義父が永眠しました。8月末。病院でCT検査を受けた結果、末期のすい癌と診断されてそのまま入院となりました。肝臓や肺に転移がみられ、もうどうしようもない状態です。余命は早くて2か月、よくもって1年。お盆を過ぎたあたりから、体がだるいと言っていた義父。それでも家の仕事をして、ご飯もよく食べていたんです。入院当初は抗がん剤の点滴を週一回、3週続けて打って、副作用とか問題なければ退院してあとは通院で治療していく。先生からはそんなお話だったんです。1回目の抗がん剤点滴の3日後くらいに発熱と食欲不振があり、トイレがままならなくなってリハビリパンツをはくようになりました。その後少しずつ回復しましたが、週一の点滴はキツイから2週間後に打つことになりました。このころはベッドに座って新聞読んだり、テレビを見たりしてトイレが近い事を除けばごく普通。いつ退院できるのか、そればっかり聞いてましたね。2回目の抗がん剤を打って、また3日後くらいから発熱と食欲不振が出ました。が、今回は予後が悪くてほとんどベッドに寝たままで。。。食事も体起こすのがつらくなり、誤嚥も始まり、点滴で栄養を補う事に。。もう尿瓶でおしっこをとることもできなくなって、リハビリパンツからオムツに移行しました。このころから、しゃべってもかすれた声になり、何が言いたいのか理解出来なくなりました。口の中に大きな出来物ができて、口で大きな息をするようになったりして。。。先生からは「抗がん剤が効いてない訳じゃないから、とりあえず3回目やって、それでも体に負担がかかるようだったら、止めた方がいいでしょう。」ということでした。3回目もしない方がいいんじゃないか。。と思わないでもなかったのですが、「高カロリーの栄養点滴に変えて様子をみながら3回目をします。」との事だったので私たち家族も様子をみることにしました。ところが、私たち家族はまだ義父の体力が回復していないと思うのに、いつのまにか3回目の抗がん剤点滴をされていたんですよね。その後は、みるみるうちに弱っていきました。もう食事は全く食べられなくなったので、点滴のみで生きているよなものです。肝臓がもう半分くらいガンに侵されていたので、体に強い黄疸が出始めました。言葉は何も発する事がなくなり、口で荒い息を吐くようになり、目も閉じたまま。時折、動かしていた手足も動かさなくなり、呼び掛けにも応じなくなり。。最後に開いてくれた右目の瞳は私の姿を捉えることなく、上方にいってました。日々、弱っていく姿が、昨年亡くした私の父の姿と重なります。私の父よりははるかに偉丈夫だった義父。そんな人でも、病に侵されると怖いくらい同じ道を辿って弱っていくんだなと感じました。唯々、残念に思うのは、義父と義母に本当の病状を伝えなかったこと。たぶん、義父は途中で気づいていたと思います。ご自身のお友達が膵癌で亡くなっていたし、膵臓がやられるとOUTだと知っていたから。でも入院当初は「手術するようなものじゃないですから。。」と先生から聞いて、「ガンじゃないのかも。。」という希望を持っていたんです。必ず、治ると信じていた。こんなに早く命の灯が消えるのなら、最初から本当の事を話してあげたら良かった。そうすれば、言っておきたいこと、会いたい人と会う、やっておきたいこととか叶えてあげられたと思うのです。義母は膠原病という病を持っていて、一見、普通に見えるけれども日常生活では出来ないことも多く、心配させたくないという配慮からはっきりとした病名は告げていませんでした。入院して治療をしてもらえば、すぐに退院出来ると思っていたと思います。お見舞いに行くたびに元気を失くしていく義父を見て、「なんで食べられへんのやろう。熱がなんで下がらへんのやろう。。」と言ってましたが、それでも少しずつ元気になるとまだ信じていたと思います。でも、義父の黄疸がひどくなって、先生から「もう、そんなに長くないと思います。よくもって一週間。。。今のうちに会いたい人に会わせてあげて下さい。」と、言われた時に義兄が本当の病名と余命を義母に告げました。それからの義母を見るのはつらかったです。しんどい体であるにもかかわらず、毎日、義父のお見舞いに足を運び、義父の顔を見ては泣き。。何時間も義父のそばに座り続けてる。きっと、家に帰っても泣いていたでしょう。そんな義母の代わりに兄嫁さんと私が交代で夜、病院に寝泊まりしました。前回の私の日記。あの日が義父と過ごした最期の夜となりました。最善の方法を選ぶ難しさ。本人に良かれと思ってしたことは、本当に本人の望んでいたことなのか。いつまでも心に重くのしかって、たぶん、一生答えが出ないことなんだろうなと思います。義父が亡くなって、昨日で丸一週間経ちました。昨日の夜、義母が急に胸の具合悪くなり、救急車を呼びました。狭心症の疑いがあるとの事で急きょ入院しましたが、検査の結果、異常は見つかりませんでした。たぶん、心労が重なったからだと思います。義父の通夜・葬儀式ではずーーっと泣きっぱなしでしたから。念のため、来週の月曜日に胃カメラ検査をしてから退院の予定です。今は心臓の先生が主治医ですが、膠原病の主治医の先生も今日は病室にお見えになって義母を気遣って下さいました。義父が亡くなった事もご存じの様子で、「しばらく病院で安心してゆっくりお休みして下さい。」とお声をかけて下さり、本当にありがたかった。何だか『怒涛の如く』という言葉が浮かぶ日々でした。実家の母も今度、心臓のカテーテル検査を受けます。まだまだ心配事が多いですが、何とかみんなで協力して頑張らなきゃな~と思います。