3日前の夜のことだ。 歯磨きチューブのなかの練り歯磨きのさいごのさいごを歯ブラシの上に絞りだし、もう、おしまいだなあと思いかけて、待てよ、と思った。このごろ、やけにこの「待てよ」という声なき声に呼びとめられる。「待てよ」が、間(あい)の手のように入るのだ。 歯磨きチューブのときの「待てよ」は、わたしに、まだまだいける、とおしえた。しぶしぶ、しまいには赤鬼みたいな顔になって、チューブから練り歯磨きを絞りだす。もう、おしまいだなあと思いかけた日から、まる2日が経過していた。 これまでもわたしは、食材や日常的な消耗品など、あらゆるモノをなるべくしまいまで使いきろうと考えてきた。約しく暮らすというのが、めあてだからだ。
けれど、このところ始終わたしを呼びとめる「待てよ」は、チューブのなかの練り歯磨きをすっかり使えてよかった、約しさを実現できた、というのを超えたところを指し示している。……ような気がする。
歯磨きチューブの前は、くつしただった。
繕(つくろ)いを必要とするモノたちが集う籠が、てんこ盛りになっていた。ほとんどがくつしただった。
――よくも、こんなに溜めたものだなあ。
見ると、なかにはかかとの部分が薄くなって、これはもうボロ布のひきだし行きかと思われるモノもあった。ここでまた、例の声だ。「待てよ」というあれ。
ここでも「待てよ」は、まだまだいける、とおしえる。
――だけど。これはそうとうに履いたのだ。このくつした1足をボロ布にしても、いいように思う。後ろめたさをもたずにあたらしいのを買えるし、正直なところ、繕いしごとがひとつ減るのだって楽ちんだ。
と考えようとする。
が、手がひとりでに動いて、ひきだしからフェルトの切れ端をとり出し、かかとの内側に当ててちくちく縫いつけはじめている。これで、来年の秋から冬、このくつしたはもうひと働きしてくれるだろう。
フェルトでかかとを補強したくつしたを矯(ため)めつ眇(すが)めつ眺めていたら、わたしがくつしたの寿命をのばしたことで、七代先の子孫に一足のくつしたを贈れたのではないだろうか、という考えがひらめいた。
繕った現在のくつしたが、どこでどう未来のくつしたに変換するのか、わたしには説明できない。けれど、この世の便利に浸りきったりしない、モノをじゃんじゃん使い捨てたりしない、という生き方はきっと残せる。
「待てよ」という間の手に、これまでよりまたさらに、モノを大事にすることを促されているというはなし。
七代先の……子孫。
七代先の子孫というときの「子孫」は100年、200年先に存在するであろう子孫である。血筋を引いて代代生まれる人びとは歳月のなかで揉まれ、こんがらかり、ある場合は途切れもすることだろう。
七代先ともなったら、血縁を超えた、その時代の人びとすべてが子孫なのである。このことは、子や孫、曾孫(ひまご)、玄孫(やしゃご)……というように、血筋を引いた代代の存在にばかりこだわらないひろがりを感じさせ、わたしの胸を明るくする。
30年間、ともに暮らしている
ティッシュペーパー・ホルダー。
あけびの蔓(つる)で編まれています。
最近、ティッシュペーパーに手をのばすたび、
「待てよ」の間の手が入ります。
使い過ぎを、叱られているみたい……です。
昨年から、書斎では
「これ」(なかみは、トイレットペーパー)を使っています。
トイレットペーパーにしただけで、使用頻度、量が、
ぐーっと少なくなりました。
半年以上使っていますが、まだトイレットペーパーを
替えていません。
紙を取るときも(片手でホルダーの上部をおさえる)、
紙を切るときも、両手が必要。
それだけで、意識的に使うようになるのでしょうね。
便利過ぎないよさを感じています。