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カテゴリ:生活
玄関で足先を、靴のなかにすべりこませるとき、何か云わなくてはならないような気がした。出かける前の約束という意味で。
「きょう、たのしみに出かけてゆくことにしない? わくわくと。ね」 「ああ。ぼくは、もう、たのしいよ。小さな旅だと思っている」 隣りで靴を履いていた夫が云う。 最寄り駅で友人のマリ子さんと待ち合わせて3人、熱海に出かける。熱海から車で20分ほどの、山のなかの家に男(ひと)を訪ねようというのである。 夫とわたしにとって大事な友人、マリ子さんにいたっては加えて幼なじみでもあるこのひとは、昨年、東京から静岡県にうつってひとり暮らしをしている。長年、忙しい上にも忙しいというほどの生活をしてきたのだが、50歳を目前に思いきってその生活をたたみ、あらたな一歩を踏み出したのだった。 あまりの潔さに驚かされながら、彼のした決断に拍手を送りたくもあり、いささかうらやましさも感じていた。 ときどき東京にやってきて、地元のおいしいものを届けてもらうなか、あたらしい仕事のはなしも聞いた。 その彼が倒れて、緊急の手術を受けたことを知ったのは、6月のことだった。手術は成功し、あっという間に退院したものの、退院後のひとり暮らしには困難があり、この先の治療の方針も決めかねているらしかった。 3人で出かけるのは、見舞いなのである。 入院中にも彼を見舞っているマリ子さんから、いちばん大変だった時期のはなしを聞き、想像もしてこの日を迎えた。ほんとうのところ、胸のなかには重たい石が置かれている。それでも、たのしみに出かけてゆきたいと思わせるものは、彼とわたしが共通して持っている質(たち)だ。わたしが同じ立場だったら、そんなときだからこそ呑気にやってきてほしいと希うだろう……彼もそうにちがいないのだった。 タクシーで坂道を上がってゆくと、道の傍らに、そのひとは待っていた。赤いポロシャツが緑のなかに映える。 「ここからの道が、わかりにくいからね」 と云いながら彼はタクシーに乗りこみ、その案内のもと家までの最後の急勾配を上がる。 --少し痩せたな。だけど……、思いのほか元気そうだ。 家に着くなり、手術のとき内視鏡で写しとった腸内の腫瘍の写真を見せられる。大きな腫瘍だったが、それは手術で全部取ることができたという。おもしろ可笑しく語るのを聞いて、笑う。大きな声であははと、笑う。 男ふたりを残し、マリ子さんとわたしは彼の愛犬ゴンと散歩に出る。ゴンは14歳、老犬である。歩きつづけると、疲れるのだろう。立ち止まってつぶらな瞳でわたしたちを見上げる。瞳に負けて、ときどき抱いて歩く。おそらく8キロくらいだろう。犬をかつぎ上げての山道の散歩は楽ではなく、さらには、迷子になりかかる。 「ここ、どこだろうね」 「ここ、どこかしらね」 と、頼りなくことばを交わしていると、目の前に黒い富士山があらわれた。曇り空に浮かぶかたちで、いきなり、にゅうっと。マリ子さんとわたしは、立ちすくみ、ゴンもつきあって立ちすくみ、息をのんでいる。 「鳥肌が……たった」 「怖いくらいのうつくしさだね」 家にたどりつき、持ってきた弁当で昼食をとる。 弁当のご飯だけ、彼のはお粥にする。 車で、下の町まで買い出し。 大根と梅干しがほしいと云う。それに、うなぎの蒲焼き、佃煮、納豆、温泉卵を加えて買う。 家に帰って、マリ子さんはもう一度ゴンの散歩に出かける。夫は掃除。 「茄子の焼きびたしと、ポテトサラダをつくって」 と頼まれる。 初めての台所で料理というのは、緊張する。 鍋を出し、戸棚の調味料を使って、勝手にどんどんゆく。焼きびたしというのは、ええと、と一瞬考えこむが、ガス台のグリルで焼いて、皮をむいて煮ることとする。新じゃがなので、皮つきポテトサラダにし、玉ねぎを加える。料理をはじめると、たのしくなってくる。モノが多過ぎず、整理された使いやすい台所。 さいごに夫とふたりで、手術のあとの長さ30cmもあろうかという傷を見せてもらう。胃から腸にかけての傷。途中、おへそを迂回した傷になっている。 「おへそは、避けるんだね」 「そうなんだよ、おへそって、やっぱり大事なんだなあと思ったよ」 熱海まで、彼に車で送ってもらう。 送り迎えつきなど、見舞いとしては落第だが、それでよし。 新幹線の乗客になり、3人で云う。 「きょうは、たのしかったね」 「ほんとうに、いい日だった」 「うん、うん」 彼のいまの生活には、悲しみや不安が透けて見える。にもかかわらず、その一部分をともにして、つくづく思う。 佳き日とは、こういう日のことをいうのだなあ。 友人の食生活の助けにと、 ・小松菜と厚揚げの煮びたし ・根菜煮なます(れんこん、大根、にんじん、干ししいたけ) ・ひじきの煮もの(にんじん、油揚げ) ・かぶのあちゃら漬け をつくって持って行きました。 つぎは、これをつくって運ぼう……と思いながら 台所に立つ日がつづきそうです。 こんな思いは、離れた場所からの声援になると、 信じようと思います。 昨日は、五目寿司の声援。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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