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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあいと娘3人との5人暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。

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2012/07/10
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カテゴリ:生活
 玄関で足先を、靴のなかにすべりこませるとき、何か云わなくてはならないような気がした。出かける前の約束という意味で。
 「きょう、たのしみに出かけてゆくことにしない? わくわくと。ね」
 「ああ。ぼくは、もう、たのしいよ。小さな旅だと思っている」 
 隣りで靴を履いていた夫が云う。 
 最寄り駅で友人のマリ子さんと待ち合わせて3人、熱海に出かける。熱海から車で20分ほどの、山のなかの家に男(ひと)を訪ねようというのである。 
 夫とわたしにとって大事な友人、マリ子さんにいたっては加えて幼なじみでもあるこのひとは、昨年、東京から静岡県にうつってひとり暮らしをしている。長年、忙しい上にも忙しいというほどの生活をしてきたのだが、50歳を目前に思いきってその生活をたたみ、あらたな一歩を踏み出したのだった。
 あまりの潔さに驚かされながら、彼のした決断に拍手を送りたくもあり、いささかうらやましさも感じていた。
 ときどき東京にやってきて、地元のおいしいものを届けてもらうなか、あたらしい仕事のはなしも聞いた。
 その彼が倒れて、緊急の手術を受けたことを知ったのは、6月のことだった。手術は成功し、あっという間に退院したものの、退院後のひとり暮らしには困難があり、この先の治療の方針も決めかねているらしかった。

 3人で出かけるのは、見舞いなのである。
 入院中にも彼を見舞っているマリ子さんから、いちばん大変だった時期のはなしを聞き、想像もしてこの日を迎えた。ほんとうのところ、胸のなかには重たい石が置かれている。それでも、たのしみに出かけてゆきたいと思わせるものは、彼とわたしが共通して持っている質(たち)だ。わたしが同じ立場だったら、そんなときだからこそ呑気にやってきてほしいと希うだろう……彼もそうにちがいないのだった。
 タクシーで坂道を上がってゆくと、道の傍らに、そのひとは待っていた。赤いポロシャツが緑のなかに映える。
 「ここからの道が、わかりにくいからね」
 と云いながら彼はタクシーに乗りこみ、その案内のもと家までの最後の急勾配を上がる。
 --少し痩せたな。だけど……、思いのほか元気そうだ。
 家に着くなり、手術のとき内視鏡で写しとった腸内の腫瘍の写真を見せられる。大きな腫瘍だったが、それは手術で全部取ることができたという。おもしろ可笑しく語るのを聞いて、笑う。大きな声であははと、笑う。
 男ふたりを残し、マリ子さんとわたしは彼の愛犬ゴンと散歩に出る。ゴンは14歳、老犬である。歩きつづけると、疲れるのだろう。立ち止まってつぶらな瞳でわたしたちを見上げる。瞳に負けて、ときどき抱いて歩く。おそらく8キロくらいだろう。犬をかつぎ上げての山道の散歩は楽ではなく、さらには、迷子になりかかる。
 「ここ、どこだろうね」
 「ここ、どこかしらね」
 と、頼りなくことばを交わしていると、目の前に黒い富士山があらわれた。曇り空に浮かぶかたちで、いきなり、にゅうっと。マリ子さんとわたしは、立ちすくみ、ゴンもつきあって立ちすくみ、息をのんでいる。
 「鳥肌が……たった」
 「怖いくらいのうつくしさだね」
 家にたどりつき、持ってきた弁当で昼食をとる。
 弁当のご飯だけ、彼のはお粥にする。
 車で、下の町まで買い出し。
 大根と梅干しがほしいと云う。それに、うなぎの蒲焼き、佃煮、納豆、温泉卵を加えて買う。
 家に帰って、マリ子さんはもう一度ゴンの散歩に出かける。夫は掃除。
 「茄子の焼きびたしと、ポテトサラダをつくって」
 と頼まれる。
 初めての台所で料理というのは、緊張する。
 鍋を出し、戸棚の調味料を使って、勝手にどんどんゆく。焼きびたしというのは、ええと、と一瞬考えこむが、ガス台のグリルで焼いて、皮をむいて煮ることとする。新じゃがなので、皮つきポテトサラダにし、玉ねぎを加える。料理をはじめると、たのしくなってくる。モノが多過ぎず、整理された使いやすい台所。
 さいごに夫とふたりで、手術のあとの長さ30cmもあろうかという傷を見せてもらう。胃から腸にかけての傷。途中、おへそを迂回した傷になっている。
 「おへそは、避けるんだね」
 「そうなんだよ、おへそって、やっぱり大事なんだなあと思ったよ」
 熱海まで、彼に車で送ってもらう。
 送り迎えつきなど、見舞いとしては落第だが、それでよし。

 新幹線の乗客になり、3人で云う。
 「きょうは、たのしかったね」
 「ほんとうに、いい日だった」
 「うん、うん」

 彼のいまの生活には、悲しみや不安が透けて見える。にもかかわらず、その一部分をともにして、つくづく思う。
 佳き日とは、こういう日のことをいうのだなあ。

ブログちらし寿司.jpg
友人の食生活の助けにと、
・小松菜と厚揚げの煮びたし
・根菜煮なます(れんこん、大根、にんじん、干ししいたけ)
・ひじきの煮もの(にんじん、油揚げ)
・かぶのあちゃら漬け
をつくって持って行きました。

つぎは、これをつくって運ぼう……と思いながら
台所に立つ日がつづきそうです。
こんな思いは、離れた場所からの声援になると、
信じようと思います。
昨日は、五目寿司の声援。






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最終更新日  2012/07/10 01:26:09 PM
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