何をするときでもそうである。
これは、誰のためのことだろうか、という考えが、ふと頭をかすめる。
家の者たちのため……?
世のため……?
自分のため……?
答えに近づくこともあるけれど、忙しくなってくると、だんだんそれどころではなくなって、つづきはまたあとで考えることにしよう……と思うのが常だった。
ごく最近のことだ。
「ああ、すべての務めは、家族のためのものであり、世のためのものでもあり、自分のためのものでもあるのだ」ということに気がついた。
ことし何度が訪れた台風が、わたしの頭の上に落として行った何かが作用したのかもしれない。自然現象に近い、不意の気づきであった。
それはまた、こう云い換えることもできる。
この毎日の務めには、家族のため、世のため、自分のため、という区別なく、ただわたしの務めとして存在する。
このことに気づいてしまってから、すっかり気が楽になった。たまに多忙なこともあるが、それさえふわふわとたのしめるようになった。
ひとに告げたら、「そんなことあたりまえじゃないの」と云われそうな気もするし、「云っていることの意味がわからない」と云うひともあるかもしれないから、黙っていることにした。
が、わたしにしたら、あまりにも大きな気づきであり、もっと云えばこの後の人生が別のものになるようにさえ思えたものだから、夕飯に金目鯛のご飯を炊いて、こっそり祝った。
金目鯛が高価であったため、ほんのわずかしか炊きこむことができなかったこともあって、誰かがぽつり「炊きこみご飯、おいしい」とつぶやいたくらいで、格段食卓の話題にもならなかった。密かな祝いのしるしであるから、それでよかったのだ。
ただし、この日の金目鯛の炊きこみご飯とて、わたしのためのものであり、家族のためのものでもあり、ある意味では世のためのものでもある。
机の横に、茶箱を置きました。
誰かがやってきて、
「ちょっと聞いて」とはなしを聞かせていったり、
お茶を飲んだり。
ちょっとおもしろい「場」になっています。
茶箱のなかには、正月の道具、ひな人形、クリスマスの飾りが
しまってあります。
〈おしらせ〉
清流出版のホームページ上で
小さな連載「忘れてはいけないことを、かきつけました」
(2週間に1度の更新)が
はじまりました。