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カテゴリ:気功
太霊道の顕動運動を紹介します。
注・田中守平は氣を霊子と呼んだ。 【霊子顕動法3法】 霊子顕動法は立式と座式があるが、それは単に座るか立つかの違いにすぎず、そのほかは全て同一である。 ここでは立式のみを紹介することにします。 1.正立 立式顕動法を修するにあたっては、まず正立することを要する。 正立とは、ただ単に直立するのではなく、心も体も、ともに正しくして立つことをいうのである。 立ち方は左右のかかとをつけて爪先を広げ、右手を左手の上にし、これを下腹部のあたりに置いて目を閉じ「全真太霊 、全身太霊、全身太霊・・・・・」と黙唱を繰り返すのである。 また衣服はゆるやかな、体を締め付けないものを着用しなければならない。 2.両碗前伸(りょうわんぜんしん) 正立して姿勢を整えたのならば、次には左右両碗の筋肉を緊張させ、指を互いに密着させて手のひらに満身の力を加え、前方に伸ばす。 3.合掌 前腕を水平にして、合掌する。この際、左右中指の付け根から1.センチ手のひらのほうに下がったところにある点(真点)を中心として力をこめ、両親指を、胸部から約センチほど離す。こうして目を閉じ。「全身太霊、全身太霊」と黙唱する。 4.横道 こうして合掌していると、短くて数秒、長くて数分で合わせた手のひらが、前後に横道し始める。 この時わずかに意識を加えて、その横道が激しくなるように動機を与えると、たちまち顕動が激しくなる。 意識を加えなくても顕動は激しくなるが、わざと放任的態度をとって、動いてくるのを自然に待っったりすると、かえって妨げになることがある。 5.縦動 それを持続していると、自然に合掌が上下に縦動してくる。意識を加えて、故意に横道を縦動にするのも、あえて妨げにはならない。また横道も縦動も、少しも起こらないという時は、意志を用いて、顕動を誘発する動機を与えても差し支えない。 6.飛動 やがて、単に腕のみでなく、全身が縦顕動するようになる。 そして、ついには、床を離れて飛び回るようになる。 つまり飛動してくるのであるが、その度合いが激しくなると、室内を飛び回り始める。 飛び上がり、飛び回る時は、目を開いていても良い。横道から縦動に、縦動から飛動へは、全く瞬間的に変化するものであり、むしろ最初から飛動に入るというときもある。 そして顕動法の上達により、横道、縦動、飛動の区別は、ますますつけ難くなってくる。 7.叉掌 顕動法は、合掌の形式によらず、左右の指を交差し、手を組んで行うこともできる。 これを叉掌と称するが、合掌で顕動がおこりにくい場合は叉掌に改め、叉掌で起こりにくい場合は合掌にするのも良い。叉掌では、両方の手のひらを密着させることが必要である。 8.曲臂凝掌 これは、両腕を折り曲げ、手に十分な力を凝らして、顕動を起こすのである。 これも前後の横動、上下の縦動を経て、全身が飛動するにいたる。飛動しはじめれば、それを自然に任せておくことが必要だ。抑えようとしたりっすると上達しないから注意を要する。 また立式の場合は、常に膝が曲がらないようにしなければならない。膝の関節をまっすぐに伸ばしたままで顕動を起こすと、直立のままで飛動するようになる。 9.曲臂握掌 曲臂握掌は、両腕を強く折り曲げ、親指を内に包んで強く手を握るのである。 手を固く握って、両腕の筋肉を緊張させることは、顕動法習得の初期のおいて、最も重要なことなので確実に行えることを要する。 ざっと書いたがまだ2~3残っているが時間の都合で次回に書きます。 そして自分氣錬者はこのエッセンスをどこで吸収したかも赤裸々に書きたいと予定しています。 太霊道の顕動運動を体得すれば私自身の体験から習慣化すると健康な身体になっていくこと本当だ。 無論仙道のようなクラシカルでかつ高度な修行法を身に着けた者が体験する強烈かつ様々なエクスタシ-な氣を味わうことは無理だが、丁度太霊道の運動は短距離やマラソン等で完走した後のあのすがすがしい全身を襲う達成感を味わったようなす氣が身体を包み込むようになる。 いわゆる「元気」を享受出来るのである。 この運動は、スポ-ツ学である例えば「アイソメトリック理論」といわれる両腕を合わせ力を均衡に左右から加え、その力が丁度拮抗するようになる状態に似ている。 この状態で持続していくと確実に筋力は増していくのである。 さらにこの左右の力が丁度拮抗していくという現象は、あのパワ-スポットである「0(ZERO)地場」と同じ理論である「断層の力が左右同志拮抗している場所」であるところである現象となにか同類なカテゴリ—に自然と溶け込んでいく状態になっていかないであろうか? そしてその状態のゼロ地場はパワ-スポットになっているという研究者の理論は、太霊道の左右の両手を合わせ力を均衡にしていくという状態も同じで「良い氣が発生する」という理論と矛盾はしないではあろうか。 もっと厳密にいうと氣は共振・回転・火花放電・永久磁石からも発生していることが科学的にわかっている。 この太霊道の顕道作用は上の氣発生運動からその原因を共振・回転から窺えることも可能だとは考えられないだろうか? 面白い考察だが、田中独自の腕を回転させたり振動させたりするいわば硬直した体型運動の体勢を維持しつつこの顕動をやる方法は、なだらかで、なめらか鳥のようになばたく自由ゆるやかなスロ-テンポな中国気功にはない新鮮さが垣間見れる。 そして最も重要なのは蒙古へ戦前あの出口王仁三郎が布教する何年も前に田中がその地を踏み、地元大衆の病を治し、その外気治療は中国気功へ吸収されていったのである。 これは現存している中国人の外気治療家が「自分は太霊道から人への外気治療を学んだのだ」とコメントしていることからも覗える。 これはこの日記で何度か私が接触した超心理学と氣の研究者である故井村宏次が語ったものだ。 そしてこの井村氏こそこの田中が率いた大霊道含む戦前に3万人もの達した霊術家を日本で初めて正面から研究発掘し世に出した人物だからだ。 「霊術家の饗宴」は井村氏が初めて世に出した霊術と霊術家のその歴史を表出した本だがもう絶版され古本で高値がついているプレミア品だ。 幸いに霊術家の黄金時代(ビイング・ネット・プレス発行)はまだ氏の死後遺言のように出版された。 そこにはドイツ西洋医学に対抗するかのように催眠・精神治療・気合術・そして太霊道の霊子術等紹介されている。そしてそこにいた霊術家達の奮戦と政府当局からの迫害、戦後の新興宗教への影響など紹介されている。 そして結果的に言ううとそこには病苦にあえぐ民衆を救う西洋医学を超越する代替医療の近代日本史でもあるのだ。 しかしこの田中の霊子術においては中国気功と類似する側面はある。それは氣を放出しているからだ。 中国気功がこれだけ日本でも普及しているのにその内容は動功主体の気功体操でいわゆる人間治療の方法等催している教室や文献等はあまりない。というかお目にしたことはない。 中国気功の日本でも紹介されている動功(気功の体操的訓練)の様々著作物や中国の古典的気功本でも外気治療の具体的ル-ツや方法は載っていないのである。 ただ自分の気功研究において例えば帰化した青島大明氏の大雁功をべ-スにした大明治療院での外気治療はその青島氏が幼少の頃ヘルニアを老人から外気治療で治してもらったのが自分の気功のきっかけとか語っているし、霊的な氣を除外したりする方法等ミックスしているのを見るとやはり中国の国教のようなものでもある道教というとてつもない気功の導引術を生み出した源水を垣間見るし、その流派は数えきれないくらいあるし、あの広大な国と歴史をもった国でもあるので外気治療のル—ツももっと現地取材等すればわかってくるだろう。 その上あれだけ気功が溢れた歴史に外気治療が少なくとも民衆の水面下で全くなかったとは言えないと考察する。 彼等中国人の幻想的心の故郷に仙人が登場することはかつて中国へ語学留学中の私が学生らと接した時にたびたび話の中で遭遇したこともあり、仙人の修行法の仙道が気功へ進化したル-ツとそしてなによりも道教自体氣を抜きにして語られない程宗教システムのコアとなっているのであるのでその気功の流派等歴史全貌を把握するのはとてつもなく難しい。 それにしては何故外気治療の具体的テキストが中国伝来の教科書が存在していないのか疑問が残る。 但し、中国は文化大革命という冷酷非情な宗教やエリ-ト(先生、僧侶等、気功も例外ではない)を抹殺する問答無用な思想浄化が行われた虐殺的歴史を通過している為、その当時の気功に関した巷の先祖からの文献資料等かなり処分破棄されたと思われる。 が、少なくとも日本から来た田中が戦前大霊道を中国の一定ヵ所へ普及させたことは間違いなくその治療方法は中国気功の一部に吸収されたいったいやあ中国気功の人治しである外気治療の方法論になにか影響したことは間違いないだろう。 田中は単なる外気治療に留まらず、氣のみ用いた人倒し、相手を思い通りに操る霊融法、その他テレパシ-開発、統合失調患者を治す精神病錬や学校の設立も試みた。太霊道の英文版テキストも存在していた。 そしてかの大予言者出口王仁三郎の大本とも対抗していくのである。 田中の霊子術は古神道伝来の神懸かり儀式に見られる霊憑依に現れる人体顕動現象を模倣した軌跡は否めない。 しかしこの顕動を意識的に主体的にそれが自己の自霊作用かわわからぬが顕動作用を意図的に起こさせ健康を回復させた業績は大きい。 全く中国気功の模倣は見えないのである。 田中率いる太霊道は全国を駆け巡った。分所は沢山でき治療院もぞくぞくできた。 当時の一大新聞の1ぺ-ジに太霊道の宣伝広告まで記載されていた。 しかしその後、太霊道の本院は原因不明の出火で全焼した。 不幸は続く......その後田中は東京で面談中に気管支発作で倒れ急死した。 享年46歳。 若い時代は国の命運を悩み、日露戦争開戦を訴え外周中の明治天皇へ直訴し逮捕された経歴も持つ。 求道者はどこか頑固で一図だが大きな発明を成し遂げる潜在的能力が秘められている者が多いようだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.02.07 12:52:34
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