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おじん0523のヒロ散歩

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2019.07.28
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カテゴリ:海外旅行
偽皇宮は清朝のラストエンペラーで、満州国の傀儡(カイライ)皇帝・愛新覚羅溥儀(アイシンカク
ラフギ)の宮殿だった建物。1934年3月1日、偽皇宮内の勤民楼で溥儀が満州国皇帝とし
て即位した。中には戴冠式の部屋がそのままに保存されている。現在は、吉林省博物
館として高句麗時代の収蔵品などが展示されている。ホールは、映画「ラストエンペ
ラー」のロケに使われた場所である。なお、偽皇宮は内延と外延とに分かれ、内延で
は溥儀一家が生活を営み、外延では執務を行った。

6/21(金) 10:10
木の花も終わり


案内板『同徳殿』


伪满皇宫博物院全景案内図


左側に『緝熙楼(ショウキロウ)』、右側に緝熙楼の北側にある『中和門』


緝熙楼の前の広場


緝熙楼
これは「緝熙楼」といわれる建物で、現地添乗員から溥儀や皇后の婉容(エンヨウ)、第三
夫人の譚玉齢(タンギョクレイ)の寝宮であったと説明を受ける。
溥儀には第五夫人までいたようで二階の一番左が第五婦人の寝宮


緝熙楼廻りの建物


まずは2階への階段を上る


『婉容の応接間』は阿片吸引室。
婉容は、満洲国時代になると、日本ぎらいもあって、阿片におぼれて、公式の場所に
ほとんど姿をみせなかった


婉容の喫煙室
長期寂しい宮殿に住んだ婉容は人身自由を喪失し、寂しさと苦悶を紛らすために、一日
中阿片を吸い、親友の冷遇と精神のストレスでだんだん精神分裂症にかかった


婉容皇后の寝室
婉容は結婚以来、一度も溥儀とベットを共にしなかった。その寂しさを紛らわすため、
溥儀の家来と浮気。その結果、溥儀からの愛は無くなったと


写真が暗くてすみませんが『婉容皇后の書斎』


溥儀の寝室


1932年4月3日から1945年8月11日にかけて溥儀はずっとここに住んでいた。彼は遅
く眠り晩く起き、一年中いっても掛け布団の代わりタオルケットを掛ける


溥儀のトイレと浴室。
左側がトイレで、右側が浴室


溥儀のトイレ
溥儀は毎日起床後、便器に座って当日新聞を読み、あるいは帝室からの経費収支帳簿
を調べて、時間を送る。偽満後期に彼は時々便器に座って上奏文の裁可もする


溥儀の理髪室


偽満州期間に日本人の津田???のために???、美容するところである。毎度切り
出した???黄色い絹で包んで、日付けを標記し、編号保存し、”龍髪” の貴重さを表
す。清朝皇帝は「龍髪」という習慣があり、切った髪を黄色い絹に包み、日付を書い
て保存していたと。
また、溥儀にホルモンを注射する器具もぃここで消毒する。
説明板はどこか日本語訳がおかしい感がするが、また一部消されて


溥儀の書斎
この部屋にも以前は、溥儀と語り合おう吉岡安直の二人のロウ人形が椅子に座っていた
ようであったがこの日はここのロウ人形の姿もなかった


溥儀の読書、習字するところである。偽満州国中後期、溥儀は勤民楼での公務処理に
無情で、その代わりに、ここで反動法令を裁可し、関東軍司令に会見し、帝室御用係
吉岡安直の内部指導を受けるなどの政治活動を行う


皇后婉容。
婉容は、北京で生まれたが、天津で育って英語を含めた西洋
的な教育を受けていた。17才の時に、溥儀の皇后として迎え
られたが、溥儀の同性愛的性向あるいは性的不能によって、
夫婦仲は冷えていき、阿片に手を出して、重篤な中毒に陥っ
て行ったのだ。
溥儀が満州国皇帝となると、婉容も再び皇后になったが、
阿片中毒と日本人嫌いのため、公式の場にはほとんど姿を
見せず、最後は身なりにも気を使わないような精神的錯乱
に陥って行った


婉容、????夫人???、紫禁城御花園


北京故宮長春宮の婉容


日本天津駐屯軍指令官「小泉六一」と溥儀夫妻。
現地添乗員は・・・・・・と言っていたが


郭布?・婉容


これらのほかにも多くの写真が展示されていた。

第三夫人の『譚玉齢(タンギョクレイ)の応接間』。
1920~1942.8.14。北京に満州族の貴族の子として生まれ、17歳の時、当時32歳の
溥儀の側室となる。22歳で病死。他他拉貴人(タタラキジン)の名でも呼ばれる


温厚でおだやかな性格で、最も寵愛を受けたといわれているが、宮仕えの5年後わず
か22才で謎の死を遂げており、溥儀はそれを後々まで日本軍による毒殺と疑っていた。
元は溥儀が食事をした食堂を、1937年以降、譚玉齢の応接間に改造。
溥儀の妹達はよく来訪し、譚玉齢と雑談した


譚玉齢の書房。
元は溥儀の書房で1937年以降、譚玉齢の書房に改造。読書・習字だけでなく、琴を
弾いたりした。また、溥儀に生活用品を編むこともあった


譚玉齢の寝室


10:40
緝熙楼を出る


近くに『西御花江園』入口


西御苑は、偽満州国の初期に、吉黒榷運局の花園の敷地の跡に造られたのである。
敷地面積が 2,200平方メートル以上である。園内にいろいろな草花と木が植えられ、
東屋や築山が池に映っていて美しい景観となる。東御苑ができていないとき、溥儀と
婉容はよくここへ遊び楽しみに来る


勤民楼(キンミンロウ)、この奥に「懐遠楼(カイエンロウ)」


勤民楼
溥儀が清王朝復活の大志を示すため「天を敬い祖を則り政に勤め民を愛す」という
清王朝の家訓より命名。政務・式典・来賓接待・宴会を行った場所。
ここには『溥儀の玉座』があるが、今回のコースには入っていなかった


勤民楼には入らず『宮内府』方面へ


『宮内府』、『興運門』に向かって進む


正面の『興運門』の時刻は、9:10で止まっている。
溥儀が長春から逃げ去った時間で時は止まっていると


正面に『興運門』、右側に『宮内府』入口


偽満州国では宮内府大臣の下に日本人次長を置いていた。
次長は名義上は大臣の補佐であるが、人事・財務等のすべての行政権を持ち偽満州国
政権を制御していた。総務処は職員の監督・指揮をする。各書類の保管や、宴会・賞
与および職員の任免・賞罰等の事項を管理していた


暢春軒。
溥儀の妹たちが暮らしたところで、寝室や応接室などが
あった。溥儀の実父が訪ねてきた時にもここに滞在した
とのこと


10:50
興運門を出る
門を出た正面奥には『御用乗馬場』があった。溥儀も実際に遊んだ乗馬場であると。
ちなみに、この博物院に展示されている家具はほぼすべてがレプリカで、本物は文化
大革命時にすべて失われてしまったらしい


そして、旱柳の並木の下を出口(入口)に向かって進む


旱 柳
別名:立柳、柳?、河柳、江柳


紫 椴


黄色の花にはミツバチが飛んできていた


紫椴、『菩提樹の花』であるようだ


約一時間半の『偽満州皇宮博物館』であった。

                            中国・東北の旅ー続く





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最終更新日  2019.07.28 06:00:13
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Re:中国・東北地方八日間の旅:三日目、偽満州皇宮博物館 その2(6/21-3)(07/28)   jinsan0716 さん
写真の周囲が、薄く雲がかかったように見えるのは
その様な設定にしてシャッターを押しているのですか? (2019.07.28 06:46:53)

Re:中国・東北地方八日間の旅:三日目、偽満州皇宮博物館 その2(6/21-3)(07/28)   オジン0523 さん
撮影した写真が暗いので修正しております (2019.07.28 06:55:13)


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