|
カテゴリ:東海道53次
山中一里塚公園から旧東海道(国道1号線)を進む。
2/21(金) 12:34 山中一里塚公園 中央に『櫟野(いちの)観音道(大原道)道標』 山中地区の旧東海道沿い、現在は第二名神高速道路土山橋の橋脚が建てられているこの付近から 南西に伸びる道がある。この山道は古くから東海道と神村(甲賀町大字神)櫟野村(甲賀町大字櫟野) 方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道ともよばれていた。 当時、道標は東海道との分岐に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ一里塚緑 地に移転されている。この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には、櫟野寺本尊の十一面 観音の慈悲を詠んだ・・・・・・・ 山中一里塚公園にある『鈴鹿馬子唄之碑』 文部大臣 小杉 隆 書 山中一里塚公園にある『鈴鹿馬子唄之碑』 馬子の像 一里塚緑地に立つ「第二名神」滋賀県起工の地のモニュメント 12:36 山中一里塚公園を後にする 12:39 国道1号線沿いの旧東海道を進む 道路標識は「道の駅 あいの土山 2km」 コミュニティバスが来る コミュニティバス「あいくる EXPRESS」の大河原行き 12:42 キロポストは東京日本橋から、437km、先に「猪鼻交差点」が見えてくる 県道507号線で三重県の湯の山温泉へ、鈴鹿スカイラインへ、17km 12:45 国道1号線の猪鼻交差点、旧東海道はこの交差点を右に折れ、猪鼻村へ進む 石柱は『若宮神社』 旧東海道はこの交差点を折れ猪鼻村に入り直ぐ西へ進む 12:47 猪鼻交差点を曲り100m程で西へ向かう。 大きな石碑には『東海道 猪鼻村』 甲賀市で置いているのか街道脇に、塩化カルシウムの融雪剤 東海道 猪鼻村 猪鼻村は、鈴鹿山脈の西方に位置し、中世は鈴鹿山警固役であった山中氏の支配を受け、近世は 幕府領や諸藩領となり幕末にいたる。 村中を東海道が東西に5町36間余(約610m)、商いを営む者も多く、往時50戸を超え街道は賑わ していた。土山宿から坂下宿間の立場(休息所)があり、草餅や強飯が名物であった。 村高は、53石余「天正19年(1591)徳川家康知行目録写」、おもな産業は農業で、製茶や林業も 行われた。 赤穂浪士の一人で俳人の大高源吾(俳号は子葉)が旅の途中に詠んだ俳句の句碑が、淨福寺の門前 に残る。また、井上士朗の『幣袋』に安永3年(1774)鈴鹿峠に向う途中で「猪鼻峠といふ名のを かしければ、ゐのししの鼻吹き返せ青あらし・・・・・」とある。 寺院は、臨済宗東福寺派の淨福寺、集落の東端には火頭古神社があり、本殿は17世紀後半の造 営とされ、国登録有形文化財となっている。 明治22年猪鼻村は町村制により甲賀郡山内村大字猪鼻、昭和30年合併により甲賀郡土山町大字 猪鼻、平成16年10月1日合併により甲賀市土山町猪鼻となる 12:49 醫王山淨福寺 所在地:滋賀県甲賀市土山町猪鼻 中島 淨福寺の山門前にある石碑には、赤穂浪士の大高源吾(俳号子葉)が江戸へ向かう途中、猪鼻村立場 で休みながら詠んだ歌である『いの花や 早稲のもまるる 山おろし』が刻まれている 淨福寺本堂と鐘楼 淨福寺は、天正年間(1573~1591)に、僧洞成禅照大禅師が開基し寺号は醫王山、臨済宗東福寺 派に属する。本尊は、薬師如来座像で伝教大師の作仏といわれ、近江源氏である佐々木氏の守仏 と伝わっている。木造秘仏で右手は施無畏、左手に薬の壺を持ち脇侍には左に日光菩薩、右に月 光菩薩。更に眷属十二神将が十二時かわるがわる本尊の守護に努めている。 薬師如来は十二の大誓願を発して、除病延寿、衣食満足、無病息災の東方浄瑠璃浄土の主尊 である。 淨福寺の御詠歌 「まいりきてめぐみをうけよ淨福の 薬師の利やくあらたなりけり」 民家の壁には屋号の「ちょうちん屋」 淨福寺を過ぎ街道右側の民家の中に『明治天皇聖蹟碑』 同じ庭の手前に『旅籠 中屋跡』 猪鼻立場 猪鼻集落は東海道土山宿から東へ約3kmの位置にあり、江戸時代には立場として賑わった。立場 とは宿場と宿場の間で休憩するところで、旅人が自分の杖を立てて一息入れたところから名付け られた。現在は緩やかな坂になっているが、往時は土山宿との間に険しい猪鼻峠があって旅人を 難渋させたのでこの辺りで休憩を必要としたのであろう。江戸時代には50戸余りの人家があり、 旅籠や商家・茶店などが6軒ほどあったといわれる。ここでは草鞋や日用品をはじめ、岩くぐと いう草で作った蓑(雨具)、よもぎ餅、柿ちまき、強飯、飴、経木で作った水呑みなどが売られて いたことが江戸時代の紀行文に記されている。 明治元年(1868)の明治天皇御東幸の折、旧暦9月23日に旅籠中屋を御少憩や中食に利用されたこ とがあり、その後も三度にわたり明治天皇や皇室の方々がここに立ち寄られている 近江屋 12:57 猪鼻村の京側の急な坂を登る 12:59 数百メートルの急な坂を登り国道1号線と合流 国道1号線の向かい側の高台に『金比羅神社』 13:00 旧東海道(国道1号線)を進むが、この辺りが猪鼻峠であったのだろうか。 往時はもっと険しい峠であったと。 国道のキロポストは、東京日本橋から437.5km地点 13:07 峠から約1キロの下りをひたすら歩くと、街道の左側に『蟹塚』の案内板 案内板におよその距離がない中、沢へ下りてゆく。 この時期、長いものもおらず、蛭(ひる)もいないので安心して歩ける 沢を渡ったりして進むと、沢の小高い所に石柱で囲んだ『蟹塚』があった。春から秋にかけての 鈴鹿峠は蛭が多いとの情報があったが、今回は安心して歩けたのが幸いであった 石柱で囲まれた中に『蟹塚』 13:10 国道1号線から300メートルほど下ったところにあるが訪れる人がいるのか、説明板 があった 木の木陰にひっそりと『蟹塚』 蟹塚には、名前にちなんだ話が伝えられている。昔、鈴鹿の山に大蟹が住み着き旅人や村民を苦し めていたところ、観音様の命をうけた都の高僧が鈴鹿に訪れ大蟹にお経を唱えると、大蟹の甲羅が 八つに裂けたという。塚はその大蟹の甲羅を葬ったものであるといわれている。またこの話には、 蟹が盗賊であったり、高僧が武士である場合もあり、街道の名物であった「かにが坂飴」もこの 「カニ」伝承を由来として伝えられてきた 土山宿にある、東海道伝馬館で購入した「かにが坂飴」 450円。 味は・・・・・・であった 沢には小魚が泳いでいた 13:15 蟹塚から国道1号線へ戻り、危険な行為で国道を横切り旧東海道へ 国道を横切ると、” ようこそ 「歴史の道 東海道」へ ” ここは、土山町蟹ヶ坂です。 これより、往時も東海道を歩かれる方は、左図に示すとおり「海道橋」を渡り、道の駅「あいの 土山」方面へ向かって下さい。尚、「東海道土山宿」へはここから800mです。 土山を訪れていただいた皆様のご無事をお祈りします。 さきほどの『蟹塚』の案内が描かれていた 榎島神社(白川神社の末社) 右側の木は、椎の木で樹齢約400年の御神木 白川神社御旅所の石柱 御神木の横に遊戯施設 現在地から「田村神社」への案内板。 土山宿へ800m、鈴鹿峠へ4.5km。 田村神社は、蟹坂古戦場跡を過ぎ海道橋(1775年架橋の田村永代板橋を復元した橋)へ進む。 猪鼻村からこの手の案内板(土山町)で、ステンレスの板にポンチか?で刻んでいるので、光って 見ずらいです、申し訳ありません 13:19 街道沿いに、交通安全の石仏 関宿~土山宿-続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.04.13 03:00:05
コメント(0) | コメントを書く
[東海道53次] カテゴリの最新記事
|