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カテゴリ:東海道53次
盛福寺から旧東海道を石部宿へ向けて歩く。
3/21(土) 10:55 夏見案内図 夏見郷:その昔「和名類聚妙」によると「奈豆美」とよばれていた。 現在地(矢印)から右斜め方向へ旧東海道(きずな街道)を進む 夏見の里 上記絵は『伊勢参宮名所図絵』で寛政9年(1797)のものである。 場所は、『夏見の里立札』(屋号:いなりやさん) 街道沿いには「木匠」 ◆伝統工法建築 ◆社寺建築 ◆古民家再生 ◆木材特殊加工 街道沿いの古民家を保存するのはこのような匠がおられるからだ! 大工さん・見習い・監督・アルバイトの募集貼り紙があったが。 『井上工務店』 所在地:滋賀県湖南市夏見1584 二代目棟梁が伝統工法の建築技術を受け継ぎ、木にこだわった住まいの良さを現在に伝えている 10:58 湖南市立三雲小学校 旧東海道(きずな街道)を進む 11:00 ひたすら歩く弥次さん、今日も元気だ! ミラーに映る我が姿 左側に立札があるが 11:02 夏見一里塚 ここまでの今日の歩数は、17,700歩 道路面に約30cm四方のコンクリート枠 夏見一里塚 この夏見の一里塚は江戸の日本橋から115里の地点にあり、東の先は水口(泉)に、西の先は石部に それぞれ一里塚があります。しかし、多くあった一里塚も明治以降は保護されず、道路の拡張や開 発によってなくなり、そのまま残っているのはごく僅かで、この一里塚のように跡地を示すだけに なっています。この写真は数少ない愛知県名古屋市にある笠寺一里塚で、このような塚がここにも あったと想像されます 湖南市夏見会館 一里塚から西へ70mの所にある『石部宿一里塚』の案内板。 この辺が夏見の立場といわれ、ここでも何軒かの茶店があり、立場の役割を果たしていた。名物 トコロテンや名酒桜川を売っていた。 又ここから約70mばかり東に行った所に一里塚があった。道路南側に約30cm四方のコンクリート の枠が埋められている。一里塚に植えられた榎の木陰で旅人はトコロテンを食べながら一休みした 場所である 11:09 左側に『覚蓮寺』の石柱があったが先へ進む弥次さん 前方に『由良谷川隧道』が見える 由良谷川隧道の手前右側に『真宗本願寺派 報恩寺』 所在地:滋賀県湖南市夏見1443 報恩寺山門 山門から本堂 本堂の右側に親鸞聖人 本堂の扁額「龍王山」 本堂への廊下 本堂前からの山門 親鸞聖人御像 浄土真宗宗祖の親鸞は9歳で出家して比叡山に登った。そこで20年間も修業を積んだが、比叡山 にいても求めるものが得られないと考えて山を下りる。 そしてちょうど専修念仏の布教をしていた法然のもとを訪ね、弟子になった。親鸞は法然を厚く 慕い、一緒に専修念仏の布教活動に身を投じた 門前の掲示板には「コロナウィルスに気をつけよう」 由良谷川隧道 大沙川隧道の二年後の明治19年竣工、花崗岩で出来た切石を追石に使用しているどっしりとした 重厚な造り。由良谷川は野洲川に合流する河川で東海道の上を流れる天井川である、毎年辺りは 紅を差したような明るくなる見事な桜並木である トンネルの上には「由良谷川」 東海道由良谷川隧道(近代土木遺産) 桜並木の桜は硬いつぼみ、道標は「新田道」 ハクモクレンも咲き 11:17 由良谷川隧道を潜り振り返る。 由良谷川は天井川から流れを平地に変えたようだ 新しい由良谷川に架かる新由良谷川橋 由良谷川は下流で家棟川と合流して家棟川となり野洲川へ 旧東海道を進む 11:22 街道脇に『子安地蔵尊』の石柱 11:23 針文五郎顕彰碑 天保13年(1842)10月14日から16日、野洲、甲賀、栗太三郡の百姓が幕府の不法検地強行に対し 蜂起した天保一揆である。この首謀者11人が最高裁の江戸送りとなる。 針の文五郎は十万日検地日延べ書持参の罪であった。一番駕籠は文五郎で道中3人が死亡し、江 戸の白洲で8人が拷問にあいながら不法検地を訴え続けた。しかし、全員獄死した。針の文五郎 は人一倍正義感の強い指導的立場の精農家であった。天保14年4月18日死亡行年50歳 11:25 旧東海道(きずな街道)の右側に『針公民館』 所在地:滋賀県湖南市針 休憩所になっておりしばし休憩 現在地は中央部 11:30 真宗本願寺派 西教寺 所在地:滋賀県湖南市針765 山門前の掲示板 山門から本堂 浄土真宗本願寺派の清光山 西教寺 親鸞聖人御尊像 本堂の脇に太鼓 11:33 旧東海道に戻り街道脇に「西光寺」の案内 西光寺の山門 浄土宗 和厳山 西光寺 西光寺本堂 西教寺本堂 水口宿~石部宿-続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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