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おじん0523のヒロ散歩

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2022.12.17
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カテゴリ:沖縄旅行
小雨の中、白梅之塔の直ぐ西側にある「山形之塔」へ車で移動。

9月29日(木) 14:30
農道脇に「歩兵第32連隊碑」が立つ。
山形歩兵第32連隊は、日露戦争や日中戦争、太平洋戦争を歴戦。特にロシアとは幾度となく激
戦を繰り広げました。陸軍は日露戦争で約8万人のロシア兵を捕虜にしますが、山形市にも42
名の捕虜が移送されたことが記録されています。収容所となったのは専称寺(せんしょうじ)・
浄善寺(じょうぜんじ)・唯法寺(ゆいほうじ)の3カ所であったと。


石碑には、「我が興亡の史跡」
歩兵第三十二聯隊(呼名 霞城聯隊
            満州八○三部隊
            山三四七五部隊) 終焉の地
     平成十七年八月建
     聯隊関係者一同


歩兵第32連隊碑
所在地   糸満市真栄里
設 置   2005(平成17) 年8月
設置者   歩兵第32連隊会
所有者   公益財団法人沖縄県平和祈念財団(2006年5月寄贈)
清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団


歩兵第32連隊碑の向い側に「山形県の塔」エリアがある。
山形の塔
所在地:沖縄県糸満市真栄里1789
右側に観音堂が建つ。その観音堂の階段下左側に「ウフ壕 (田原屋取の壕、三十二連隊の壕)」
入口があるが施錠され立入禁止になっている。


山形の塔
この塔は沖縄 (七七六柱) をはじめ海外諸地域において戦没された山形県出身者四万余柱の諸霊
を祀ってあります。
一九六五年二月山形県民の総意と誠心による碑石、台座を県から運び建立したもので、この聖
地は歩兵第三十二連隊が軍旗を奉持勇戦奮闘し一九四五年八月この境内で奉焼した由緒ある丘
であります。
右の堂は観音像 (二体) を安置する観音堂です。
                                                                                山形県
  一九八二年十月(再記)


観音堂
中には観音像 (二体) が安置されている。


ウフ壕(田原屋取の壕、三十二連隊の壕)
田原屋取とは「たばるやーどぅい」と読む。元々は、真栄里の住民が整備した避難壕でしたが、
陸軍(第24師団歩兵第32連隊)が接収・使用しました。第24師団とは山部隊のことで、山が付く
のは「山形県」出身者で構成されていたためであると。
また、管理者も沖縄県ではなく山形県になっている。
地下壕の概要
 ・規 模:全長約100m
 ・形 態:鍾乳洞
 ・使用者:地域住民、陸軍(第24師団歩兵第32連隊)
 ・土 質:琉球石灰岩


丘の上に「山形の塔」


裏面には「山形県知事安孫子藤吉謹書」と。
山形県知事であった安孫子藤吉氏が昭和39(1964)年に建立。


左奥に建っていた「眞山の塔(みやまのとう)」。


眞山の塔
雨宮中将率いる第24師団の各部隊は運玉森を守っていたが、第32軍司令部が摩文仁へ移ったの
に伴い、与座岳、国吉、真栄里の線に後退し布陣を敷き、米軍と戦った。ここに陣地を築いて
戦い全滅した100人余りを祀っている。
この塔の左奥に「白梅之塔 (上の壕) 」があったのだが雨が降っていたためここで引き返す。


眞山之塔(みやまのとう)
所在地   糸満市真栄里
設 置   1967(昭和42) 年5月
合祀者数  100柱
設置者   (一財) 沖縄県遺族連合会
清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団


眞山之塔の右前に立っていた石碑に、
怒濤の南進を続ける米軍に対し第二四師団隷下の各部隊は最後の拠点として真栄里
地区に陣地を構築し勇戦奮闘敵の心胆を寒からしめたるも、ついに昭和二十年六月
十七日この附近の壕内において玉砕せり。
こゝに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め永くその
遺烈を伝う。
     昭和四二年二月 財団法人沖縄遺族連合会


モニュメントには「眞山の塔」と書かれているのだが。
この塔は昭和42(1967)年5月に沖縄県遺族連合会により建てられた。


歩兵第32連隊碑の左側の上にあったこの史跡は?


14:35
歩兵第32連隊碑前から坂を下ると左の杜が先程訪れた「白梅之塔」。


14:40
次に訪れたのが山形の塔の西550mにある、
栄里之塔(えいりのとう)
所在地:沖縄県糸満市真栄里
歩兵第22連隊は第32軍の左翼第1部隊として真栄里付近に布陣を敷き戦ったが、昭和20年6月
17日に全滅した。ここは米第10軍司令官バックナー中将が戦死した地でも知られる。終戦後、
真栄里地区の住民は田畑、道ばた、丘などに散らばる遺骨を集め、この塔を昭和27年3月に建
立した。昭和43年3月、南方同胞援護会の援助を受け改装された。


道路脇に車を停め木立の中にモニュメントを見つける。


栄里之塔
所在地   糸満市真栄里
設 置   1952(昭和27) 年3月
改 修   1968(昭和43) 年3月
合祀者数  12,000柱
設置者   (一財) 沖縄県遺族連合会
清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団


モニュメントには「栄里之塔」


栄里之塔
歩兵第二二連隊は第三二軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、南進を続ける
優勢なる米軍に対し熾烈なる砲火をあびせ遂に米軍司令官バーグナー中将もこの地に
戦死す。
住民とともに勇戦奮闘せる我が軍は物量を誇る米軍の攻撃に抗しきれず善戦空しく
昭和二十年六月十七日玉砕し悠久の大義に生く。
終戦後真栄里部落民は本戦闘に協力せし住民並びに将兵の遺骨一二,○○○柱を収集
し栄里之塔を建立せしもこのたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画
し塔を改修し永くその遺烈を伝え英魂を弔う。
  昭和四三年三月 財団法人沖縄遺族連合会


14:45
栄里之塔の直ぐ西側の十字路に立っていた案内板。
ここは「バクナー慰霊碑」。


これらの戦争史跡は直径700~800m内に位置している。


バクナー慰霊碑
所在地:沖縄県糸満市真栄里615
バクナー慰霊碑は丘の上にある。階段横に白いプレートの説明板がある。


そのプレートに、
バックナー中将戦死之跡
所在地   糸満市真栄里
設 置   1975(昭和50) 年6月
設置者   (公財) 沖縄県平和祈念財団
所有者   公益財団法人沖縄県平和祈念財団
清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団


二つ目の階段の上に石碑が立つ。


碑には英語、日本語で書かれていた。
追悼碑
米国陸軍准将
クローディアス エム イースリー  
1891年 ー 1945年
1945年6月19日
この地に於いて戦死す 





一番高い所に、十字架のモニュメントが横たわっていた。
米第十軍司令官サイモン・B・バックナー中将は1945年6月18日午後1時15分、戦闘指揮中に
この地で戦死した。これは2013年現在に至るまで、アメリカ軍史上において最高位の階級で戦
死した事例である。1952年に米軍の手により記念碑が建立されたが、1974年にキャンプフォ
スターに移設されたため、1975年6月に沖縄県慰霊奉賛会により現在の碑が建立された。


碑には「諸霊よ安らかに」と。


こちらの石碑には、
「米国第十軍司令官 シモン B バクナー中将戦死之跡」。





一九四五年六月十八日米国陸軍中將サ〇モンボリバーバックナー此の地に於て戦死す。


14:50
バクナー慰霊碑を振り返る。
雨で濡れていたので足元に注意しながらの散策でした。
この後は南方向の約3キロ先にある「萬華之塔」へ。


15:00
萬華之塔(まんげのとう)
所在地:沖縄県糸満市真壁1292
戦後に真壁地区の住民が共同作業で遺骨収集を行い、1951年に集落の北側に納骨堂を建立し、
遺骨を安置した。箱型の納骨堂の上には塔名を記す碑が立てられた。碑文のないこの慰霊塔は
真壁の人々の浄財によって建立されたもの。塔の手前には寄付者の氏名が記されている。納骨
堂の中には現在も無名の戦没者が眠る。


入口に「萬華之塔」の石碑が立っていた。


敷地内に入ると右側に「珊瑚礁を朱にそめて」。


珊瑚礁を朱にそめて
   臨時海軍砲大隊長
    陸軍砲兵少佐 仁位顕
昭和十九年六月独立重砲兵第一〇〇 大隊指揮班長として沖縄本島に出征。同年十二月砲兵第
四十二連隊付となり二十年一月陸海軍砲大隊長として沖縄戦に突入す。九六式十五糎榴弾砲を
以て平良方面の敵は自ら対空警戒に当り同場所にて千三百発余発射した事は敵の肝胆を寒から
しめアメリカにもその実績を認めた史料が残されているとの事。覘つた目標は必ず仕止め旅団
長をして「海軍砲頼むぞ」と頼りにされ「海軍砲大隊は有効適切な射撃を以て屢々旅団を救い
その功績は極めて顕著である」との賞詞を受け又敵の砲三門仲西付近の街道に現れた折我が砲
弾四発を以て確実に敵の砲を破壊した事は高く評価された事実である。奇しくも生還する事を
得てその一生を護国神社にて沖縄英霊の慰霊につとめた。


沖縄連隊区司令部没職員 慰霊碑
   沖縄連隊区司令官 陸軍少将井口駿三閣下
         祭霊外 88柱


右奥に並ぶ「鎮魂碑」「慰霊之碑」。


手前の石碑には、
鎮魂碑 独立重砲兵第百大隊(球一八八〇四部隊)
昭和十九年六月中旬マリアナ戦線の変化に伴い、突如陸軍重砲兵学校に八九式十五糎加農砲一
個大隊の動員が下令された。
       ・・・・・後略
   平成五年五月
      全国重砲会 重砲校友好会
      独立重砲兵第百大隊遺族会


独立重砲兵第百大隊鎮魂碑
所在地   糸満市真壁
設 置   1993(平成  5) 年5月
合祀者数  134柱
設置者   全国重砲会重砲校友好会
      独立重砲兵第百大隊遺族会
清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団


奥の石碑には、
慰霊之碑 山三四七四部隊  元満州第八八部隊
                  岩門町長 奈良敬花 書
台座に、「碑 誌」
山三四七四部隊の慰霊碑は、1981年 (昭和56.11.5) に字真壁の個人所有地タヂリガマに建立
し22年間慰霊祭を開催。ところが地盤損傷と永代供養も考慮し、地元字真壁区長金城一男様外
役員の格別のご高配を賜り、2003年 (平成15.11.3) に萬華之塔敷地内に移設しました。
    慰霊碑を守る会 奥田武志・新垣純子・小林良男・小西正二
左側に「故 山本正義之墓」。


個人名の石柱が林立していた。
「故 島田清美之墓 陸軍伍長」「故 陸軍中尉清水○○」「故 陸軍伍長堀江浩之碑」
「谷本正男之碑 故陸軍伍長」


納骨堂
一番奥にあるこの箱型の建物の屋根に「萬華之塔」と書かれた碑が載っていた。
この建物は納骨堂で中には現在も無名の戦没者が眠っている。


萬華之塔
所在地   糸満市真壁
設 置   1951(昭和26) 年8月
合祀者数  19,207柱
設置者   真壁自治会
清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団


納骨堂の廻りには多くの砲弾が立っていた。


萬華之塔の手前には手書きで寄付者の氏名が記されていた。
左の方は落書きの如くに書かれていたが。


萬華之塔  砲兵山吹之塔 由来記
この浄財寄附者の碑は、昭和二十年六月二十三日沖縄戦終焉直後米軍占領下にあって、
ここ當時糸満町三和村真壁部落の村民が、山野や田畑に累々と野〇しのままであった
尊い軍官民戦没者の御遺骨を収集奉仕され、焼土と化した住むに家なき生活にありな
がら、占領下の通貨・・・・・後略
 平成四年五月十五日 沖縄復帰二十年記念
     野戦重砲兵第一聯隊会  祭主 石原正一郎


納骨堂の左側に立つ「砲兵山吹之塔」の石碑。


砲兵山吹之塔
山根忠大佐を連隊長とする野戦重砲兵第1連隊は昭和19年、南方各地を転戦したのち
沖縄戦に参加したが、昭和20年6月に真壁で将兵の大半を失った。昭和41年6月連隊
の生存者によって塔は建立され、山根大佐ら将兵739柱を祀っている。


野戦重砲兵第一聯隊  沖縄戦球第四四〇一部隊戦没者 砲兵山吹之塔 墓誌
  戦没者の名前が県別に記載されていた。
    平成八年六月二十二日 奉献     東京都 元中隊長 石原正一郎  合掌 


砲兵山吹之塔
所在地   糸満市真壁
設 置   1966(昭和41) 年6月
合祀者数  739柱
設置者   生存者 山吹会
清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団


いろんな碑が立っている。


馬魂碑


中央の石碑には「鎮魂」、右側に「馬魂碑」。
中央の碑には「山3480部隊 終焉の地」と。


野砲兵第42連隊鎮魂碑
所在地   糸満市真壁
設 置   1987(昭和62) 年3月
合祀者数  
設置者   野砲第42連隊戦友会・同遺族会
清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団


15:05
境内入口の左側に立つ「山三四八〇部隊戦没者氏名」の石碑。


萬華之塔内には多くの石碑が立っていた。
小雨の降る中参拝した。

                                      ー 続く ー





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最終更新日  2022.12.17 03:00:06
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