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この間チラッと見たテレビ番組が、半ば「仏女」特集だった。 仏スキが高じて、学芸員にまでなったと言う仏女は、 東北の、とある有名な仏様を紹介しつつ、 「私の推しメンはこちらです!」 「おムコさんに如何ですか?」 などとノリノリでタレントに話しており、少し呆気に取られた。 私も綺麗な御尊顔の仏様を、イケメンと評する事はあるが、 ・・・いやでもしかし。 古来より日本人は、仏の高みへと上がろうと足掻いて来た。 今や、仏を俗世のポジションに引き下げ、価値観に嵌めようとする。 お心の広い仏様は、苦笑の上赦してくださるだろうが・・・。 ******* 齢この年まで知らなかったんですが。 神戸にはいくつもお城がありました。 勿論その全てが今は形無く、城址として名残を留めるか、伝承のみですが。 中でも山城ファンに有名なのが、JR新神戸駅の裏山、瀧山城なのだそうです。 *** 瀧山城は大阪湾を見通して、往来する船を監視する事が出来、 西の再度山城、東の摩耶山城を両翼に、戦略上二つと無い拠点にあります。 (案内板より) 瀧山城築城についてはよく判っていないようですが、 南北朝時代に赤松円心則村によって築かれ、幕府討伐の拠点となり 南朝に攻め込まれ、たびたび戦場となったようです。 則村の死後の城に付いても、よく判っていません。 戦国時代に松永久秀によって修築され、その後城主が時々代わります。 同じく神戸にあった花隈城の支城として使われていたようです。 天正6年、荒木村重が織田信長に謀叛を起こし、攻められ、放棄されたようです。 (落城?放棄?よく判りません) その後、織田方が拠点として使っていたりしたようですが、 花隈城が落城してからは、再び記録に瀧山城が現れる事はなかったようです。 石垣などは、兵庫城築城のために運び去られたのだそうです。 (その兵庫城も、今や当該場所に石碑と案内板を残すのみですが) 標高の高い場所から、築城に用いる石を運び出すのは相当骨が折れたと思いますが、 折も折、先月兵庫津遺跡(城跡)の発掘調査で、 兵庫城の石垣に、墓石やお地蔵様が、割られ、多数埋め込まれていた事が判明しました。 敵城の築材など、当然余さず使うでしょう。 石材は、相当貴重品だったようです。 ![]() 入り口には標識があり、迷う事は無いし、ハイキングコースにもなっていますから、 それなりに土が踏み固められ、階段が整備されており、道は比較的歩き易いです、・・・が、 山城は元来戦うための城、訪れるものを歓迎しよう筈がありません。 よそ様のブログでも拝見しましたが、真夏に登るのは厳しいと思います。 ![]() 所々に見える郭(曲輪)。 人為的に山肌を削り、土をならし、平らな敷地を作って敵襲に備えた跡です。 本当に至る所に、と言う感じでありました。 ![]() 土橋。 左右は堀、になるのだそうです。 でも、今は土が流れ雑草が生い茂り、堀というイメージが湧きません。 (土橋ではないとする説も) ![]() 本丸近くの堀切。 峰や尾根を、堀を作って流れを切り、尾根沿いに侵入を図る敵を防ぐ目的で作られました。 ![]() 至る所に土塁、削平が見られますが、 石垣の残りも城の名残を伝えてくれます。(階段は近年造られたもの) 主郭 ・・・所謂本丸のあった場所です。 ![]() 東屋が造ってありました。 これは郭の一番奥から見た様子。 雑木が多く、残念ながら下界や景色は殆ど見えません。 ![]() 櫓台には城碑が建てられていました。 なにか、碑の前に器が見えるけど・・・何のつもりだろうか。 ここから再度山(ふたたびさんと読む)へ行けるようですが、この日はこれで引き返します。 ![]() 下りる時は早いものです。 大して息も切らせず、直ぐ中腹まで来ると、ぽっかり視界の拓ける場所がありました。 おお、海までまっすぐ見通せる。 上を見上げると、ロープウェーが。 このロープウェーは、新神戸から布引ハーブ園へと連れて行ってくれます。 ![]() ![]() 沢の音が強くなり、地上?に近づきました。 川の近くの土壌だからか、コアジサイ(柴紫陽花)の群生が元気。 ![]() さて、地上に到着です。 『猿の架け橋』。 ![]() 徳島の、祖谷のかずら橋を模したものだそうです。 森林保護を目的として、木の生育を阻害するつる類を取り除き、集めたさるなしのつるで 既存の橋に装飾を施したのだそうです。 (六甲山の瀬戸内海国立公園編入50周年記念) さてここからも色々なところへ行けますが、この日の目的は城でしたので、 布引の滝だけを見て帰ります。 この滝については又今度・・・。 ![]() お付き合いくださり、ありがとうございました。^^ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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