テーマ:日本人のルーツ(527)
カテゴリ:歴史
日本の天皇家は、偉大なるウラルトゥ王朝の末裔であり、後に扶余王となって満州の地に君臨し ソロモンとシバの女王の子、メネリケの子孫である大物主一族と同盟して邪馬壱国を建て さらに百済国を建てました。 【ウラルトゥの歴史】 カッシュ人がウラルトゥ地方に侵入する前から、この地には原ヒッタイト族、カルトヴェリ族 ハヤシャ族などが住んでいました。フツリ人はエジプトやカナンから、この地に拡散して きたのですが、ヒッタイト資料は、この地方を【フツリ人の国】と記しています。 フツリ人は、BC2000年紀半ばには、ミタンニ王国に従事し、ヒッタイト王シュビルリウマシュ以降は ヒッタイト王国に従属していました。 ヒッタイト崩壊後、いくつかの少国家がヒッタイトの伝統を継ぎ、カルケミシュはハッティ国 オロンテスはハッテナ国となりました。そこに、ヒッタイトのムシュ族やカスカイ族などが入って きたのです。このようにウラルトゥは、当初からミタンニやヒッタイトのフツリ人、カッシュ人 チュルク人などからなる、いくつかの部族の連合体でありました。 ここで、ウラルトゥの住民に、カッシュ人があったことが書かれていますが、カッシュ人は月氏になり またインドに移ってクル国のなかにも混在しました。従ってウラルトゥとクル国は同族であり 従属した同盟者といえるでしょう。 約3000年前に、フェニキア人(女)とヒッタイト人(男)の混血によって、ウラルトゥ人が生まれました。 この時、ウラルトゥ人によって小アジア(トルコ)のヴァン湖周辺に建国されたのがウラルトゥ王国 であり、その初代王となったのが、アマテラス(男神)です。 BC1013年、イシンの末期に、フェニキア人のマカン(海の国)がウラルトゥと共にアッシリアと 戦いました。その結果、アッシリア王の攻撃でイシン(殷の本国)が滅んだため、番韓のヤードゥ は海に浮かんでインドに逃れ、ウラルトゥは、北方ヴァン湖に退き、シャキイ族は、南下して 後の穢国になりました。この時、カルデア人は、アッシリア軍に捕らえられていたイシン王族の 子叔箕しゃ(ししゅきしゃ)を奪い返し、遥々航海して渤海湾に至り、遼東半島に上陸して その地に国を建て、【奇子朝鮮】と名付けました。 BC781年、ウラルトゥ王アルギシュティシュ1世=ウガヤ王朝初代・衰子餘よ(すいしよ) または申侯が、アッシリア王を破ります。同じ頃、ドーソン(銅鼓)文化の拡散始まります。 インド太陽王朝のマラ族と月神王朝の連合軍が銅鼓文化を持ってジャワ島、バリー島 セレベス島などに入りました。 日本の神代史によく出てくる高天原(たかまがはら)とは、BC597年以降、ユダヤ人がイスラエル から連れ去られ、アッシリア帝国に幽閉されていたバビロンの古代地名です。 それは、【タガーマ地方のハラン】のことで、イラク北部からアルメニアにかけての一帯の地名 であり、この高天原からユダヤ人10部族は世界中に拡散しました。 アッシリアを滅ぼしてから300余年を経てBC6、5世紀になるとウラルトゥは二分して 匈奴(キンメリ)と連合するものと、ペルシア(秦)に従属するものとになりました。 秦は、この後、益々強くなり燕(フェニキア)も強化されたので、奇子朝鮮は、ついに 満州に移って大凌河を国境とし河西の地を譲って東遷しました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008/06/23 10:35:56 PM
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