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2008/05/31
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カテゴリ:歴史

日本の天皇家は世界最古の輝かしい歴史を持つ王朝です。

オリエントでアッシリア帝国と覇を争い、キンメリ人と連合してシルクロードを東遷した

偉大なるウラルトゥ王朝の末裔であり、後に扶余王となって満州の地に君臨し

ソロモンとシバの女王の子、メネリケの子孫である大物主一族と同盟して邪馬壱国を建て

さらに百済国を建てました。

この歴史の栄光は、【記紀】によって抹殺され、忘却されてしまったのは残念なことです。

扶余には、月氏+ウラルトゥ王朝、シルクロード系の前期王朝と

インド経由の穢国、南海系の後期王朝がありました。共に製鉄部族です。

箕子朝鮮が滅亡した後、穢族の王アグリイサトは扶余前期王朝に合流し

やがて強力になり扶余後期王朝になり、東明王と称しました。

そのため、月氏+ウラルトゥ王朝、シルクロード系の前期王朝は、・エゾの地へ移動し

東扶余を建て、その子孫に仇台が出て九州に渡来して神武天皇になりました。

倭人が元々中国の先住民であった趙国(申国)→大扶余→北扶余→東扶余→神武という歴史を

抹殺したのは明治になり、富国強兵へ進むなかで皇国史観を成立させるためだったのでしょうか? 

皇統譜では、神武から威徳までの王朝が孝昭から開花までの王朝の前に書かれていますが

これが百済人による【日本旧紀】の書き方で、継体の前が武烈で、百済23代の三斤王になって

いますが、なぜ、百済23代武烈と24代欽明の間に安羅王の三代(継体・安閑・宣化)が

入ったのでしょう?

現在の皇室御一家は、国民が失ってしまった素朴な日本人らしさをお持ちになって

好感がもてますし、品格と慈しみのある美智子妃を、崇拝しています。

それとは別にして天皇家の系図は万世一系とは言い難く、八つの王朝が継いできたものでした。

第一王朝、天の王朝(東表国・豊日国・金官加羅国)

第二王朝、ニギハヤヒの多羅王朝

第三王朝、神武以下の扶余の百済王朝

第四王朝、継体以下の邪馬壱国または安羅王朝

第五王朝、皇極(斉明)以下の新羅王朝

第六王朝、道鏡、光仁以下の亡命百済王朝

第七王朝、後小松以降の足利王朝

第八王朝、明治以降から現在の南朝系百済王朝

 

第一王朝、天の王朝(東表国・豊日国・金官加羅国)

BC800年頃、タルシシ船でコーサラ国を経て九州に東表国を建てた日本最古の王朝

エビス王朝、後に朝鮮に飛地を作って駕洛国・金官加羅といわれ、その王家は金氏と中臣氏に

なりました。そして新羅の金王家が分離します。今日のソマリヤ地方、オッフルの植民市で

邪馬壱国に伊都国を譲る前は九州全域を1000年間支配し、譲った後、朝鮮半島の

弁辰地域の金海を飛地として支配しました・・・金官加羅・駕洛国(狗邪韓国)の始祖は

エビス王クルタシロス(首露王)ですがクルタはタルシシ船支配者の意味。

エビスはエレサレムのエブス人です。エビス人もオッフル人も紅海とアラビア海の海人でした。

この王家は【記紀】では孝昭、孝安、孝霊、孝元、開花とつづき、後の倭の五王に至ります。

第二王朝、ニギハヤヒの多羅王朝

この一族は、かつてディルムンを本拠としたシュメール人とカルデラ人の子孫で、後に

ソロモンのタルシシ船に参加したヒッタイトの製鉄カーストをも吸収し、アラビア海のヤードゥ族

を従えてプール国をたて、ガンジス河口のコーサラ、マガダ両国のシャキイ族となってマレー半島

のクラ地峡を越え、モン族の地を支配し、ベトナムに文郎国をたて、後に河南省の宛に製鉄コロニー

をつくって魏と韓に属していましたが後に、秦に追われて奇子朝鮮をたより、穢国をたてました。

穢国王アグリナロシは奇子朝鮮を滅ぼした衛氏朝鮮に復讐するため漢に協力しましたが漢は

衛氏を滅ぼすと奇子朝鮮を再興させず、楽浪、玄メンの二群にしてしまい欺かれたアグリナロシは

自刃したため、その子アグリイサシは遼東太守を殺害して北扶余前期王朝と合体し、その庶子

が王位を奪って北扶余後期王朝をたて東明王と称しました。穢国の王族はシャカ族で国民は

チュルク族でした。ニギハヤヒの姓、余の「アグリ」はドラヴィダ族の一派というゴードン族のなかの

サブカーストのアガリアという鉄工部族をさします。別にインドには製塩カーストでアグリアーと

いうのもあります。そして、この一族後期王朝の陝父(ニギハヤヒ)が南下して熊本に多婆羅国を

たて後に、神武・卑弥呼の邪馬壱国に吸収されました。

第三王朝、神武以下の扶余の百済王朝

朱蒙は東扶余(北扶余前期王朝)に追われて、北扶余後期王朝(穢国)の陜父らと共に卒本に

逃れて高句麗をたて、北扶余を奪って高句麗国をたてました。このために陜父らは九州に亡命し

多婆羅国をたてるのです。扶余王家は、167年頃、夫台が高句麗と戦い、その子仇台は、高句麗

と和解し高句麗の養子になりその王族と化してケイ須といいました。後に自立し、公孫氏と同盟

して、その宗女を娶り、公孫度は逆に扶余の王女を娶りました。公孫氏が南下して帯方郡をたてる

と仇台もその地に至って伯済国をたてた後に百済王仇首といいました。

この仇首が伊都国王イワレヒコ・神武であり、その妃、卑弥呼は公孫度の宗女で日向にいました。

高句麗は新大王の長子、発岐が公孫氏と同盟し涓奴部を率いて遼東に都したため、三子、延優ら

輯安に移って新国をたてました。後に魏によって公孫氏が滅亡した時、発岐一族の旧国は新国に

合流しました。扶余王家は仇台、位居、麻余と続き、依慮はその末王であり、百済の近肖古王に

なって鮮卑の慕容カイに討たれて亡命南下し、伊都国の王、祟神になりました。

第四王朝、継体以下の邪馬壱国または安羅王朝

継体・安閑・宣花は、安羅王(卑弥呼・邪馬壱国の分国)で、日本史の上では大物主命の

子孫の大伴氏でもあります。実は、新羅が金官加羅を滅ぼすことができたのは安羅が新羅

と通じていたからで、この後、新羅、安羅・百済の三国は、しばらくは同盟して共通の敵

高句麗に対していたのです。後の白村江の戦いに於ける倭国(安羅)滅亡の原因は

金官加羅王家の子孫で新羅の重臣となっていた金ユ信が亡国金官加羅の怨みをはらさんと

して王子、金春秋と組んで唐の力を借りて安羅打倒を計ったのです。

第五王朝、皇極(斉明)以下の新羅王朝

そして金官加羅から分裂してできた新羅の金姓王朝が皇帝と書かれ、皇極、斉明・・天武、文武

と、続く第五王朝になりました。即ち、白村江の後、成立した天武以降の新羅王朝はこの第五王朝

の続きです。






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最終更新日  2008/05/31 06:55:28 PM
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