テーマ:日本人のルーツ(527)
カテゴリ:歴史
旧人であるネアンデルタール人は、8万年前頃、最後の氷河期の前半、広く生存し多くの遺跡を 残しています。旧人の精神活動が深められていったことは、残された埋葬例からうかがえます。 イスラエルのカルメル山洞窟群、ナザレ近くのカフゼー洞窟では六体の成人と子どもの骨が 出土していますが、そのうちの13歳ぐらいの子どもは胸の上で鹿の角を腕に抱えていました。 鹿の角は秋に抜け落ち、春に新しく生えてくるので再生、豊穣の観念があったと考えられます。 また、イラク、クルド地方のシャニダール洞窟の埋葬例は、その周辺の土壌から色鮮やかな花の 花粉が検出されました。その死者は地を凹めて花の中に埋められていたのです。 それらの花が薬草であることから、被葬者は単なる長ではなくて、呪術師的要素をもっていた と思われます。そのように旧人には死者を埋葬する習わしがあったとされます。 ただし、ユーゴスラビアのクラビナ洞窟および南フランスのオルチェス洞窟の旧人の骨は割られ ており、食人儀式に供された可能性が指摘されています。 4~3.5万年前頃、ヴェルム氷河期の中頃、旧人は突然新人にとって代わられます。 わたしたちの祖、ホモサピエンスです。生と死の神秘に対する畏怖の精神は旧人から 受け継がれたようです。フランスのレ・ジジーの洞窟は死者の周囲やその上にコヤスガイの 貝殻が丹念に並べられていました。コヤスガイは生命授与の呪物でした。 万物の生命を授ける物【大母神】が先史時代の西欧の信仰の中心でした。 新石器時代になっても、アナトリアのチャタルフユイックとハジュラルの二つの遺跡で 数千年にわたってより高度な《女神》崇拝の文化があったことが判明しました。 そこでは《女神》の神殿と【女神】小象がいたるところに見出されています。 それ以前のパレスチナのエリコの遺跡にも粘土の【女神】小象がいくつも発見されています。 ティグリス川沿岸の遺跡サマラでも、極めて手の込んだ彩色の女性像がたくさん出土しています。 インドのハラッパやモヘンジョ=ダロに於いても大量に粘土の素焼きの女性小象が発見され イギリスのストーンヘッジ、巨石文化の遺跡にも見られます。地中海のマルタ島のほうまで 広がっており祭儀や儀礼において【母神】が重要な役を演じていたことがわかります。 古代社会は女性中心であったようです。しかし男性原理もまた重要な役割を果たしていたことも 明白で【聖なる結婚】の神話と祭儀を通じて融合していました。 男女は一致協力して互いに肩を並べて生きていて いずれも他に隷属するものではありませんでした。 互いに相補うことによって、彼らの力は倍加していたのです。 チャタルフユイックから出土した小さな石の銘板には女と男が優しく抱き合っているところが示され その隣には子どもを抱いた母親の浮き彫りが刻まれています。 それはBC6000年あたりに始るミノア期のクレタ文明まで続きました。 アナトリアから移住した入植者、【女神】を一緒に携えてきた小集団によって伝えられたらしい。 物質的にも精神的にもより高度な文明の基礎がおかれ、芸術も栄えました。 家系は母親を通してたどられ、年上の女性ないし氏族の長が大地の実りの生産と配分を 司り、実りは集団の全員に平等に配られました。チャタルフユイックの場合のように 異なった人種の人々も共通の幸福のために共同して働き、戦争というものは存在しませんでした。 これらの農耕民族にとって、人間の初期に達成された絶頂の進化と平和と繁栄を享受する 人類の至福が永遠につづくと思えたにちがいない。 最初、それは一見とるに足らない周辺地域を家畜の群れの草を求めてさまよう遊牧民の 集団活動にすぎなかったものでした。 彼らは数前年以上も地球の端の誰も望まないような厳しく寒く痩せた土地に暮らしていました。 徐々に数を増し、獰猛さを増して、農耕民族の世界に侵入し脅かし、男性支配、支配階層的 権威主義的な社会構造を押し付け、【女神】を崇拝していた古ヨーロッパの社会が崩壊して いきました。【クルガン人侵入】といわれるものです。 母系から父系への推移と銅や青銅の冶金術の発達とを結びつけた研究家もいます。 【女神】崇拝の農耕社会でも冶金術はありましたが装飾や宗教的目的、そして道具を 生産するために使っていたのです。 薄く鋭利な青銅の斧、棍棒の頭、戦闘用斧など青銅製の武器の出土とクルガン人の拡散の 道程とが符号していることが解明されています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008/10/22 07:58:18 AM
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