カテゴリ:歴史
"Ur"という言葉は、【非常に古い根源的なもの】を意味します。 Urbefolkning ;原住民、先住民族 ウルは、アナトリアのチャタルフュイックの牛頭信仰に繋がっていると考えられます。 アッカド人が現われる前のメソポタミアは、シュメール人とウル人が住んでいました。 シュメール人は蛇を、ウル人は牛をトーテムとする人たちでした。 そしてウル人がシュメール人を支配していたらしい。 牛の頭に対する信仰【牛頭信仰】は、後の人類の歴史の中に系譜が遡れます。 日本国のスサノオのミコトも牛頭大王という別名をもっていますし、 牛頭天王というのは、古代天竺(インド)に居て、釈尊の教国の僧坊である祇園精舎 の守護神だったといいます。 牛頭神はヨーロッパにも見られ世界文明の主なる流れの最高神だった可能性があります。 BC3000年頃からインダス河口が人々の移住を許すようになるとセム族に圧迫されながら エラム、ドラヴィダ系の人々が南下し、前2350年頃から、アッカドのサルゴン王家は 河口のロートルに上陸し、筏に乗せて牛を揚陸させました。 インダスに於いては牛が貴重品であったため支配者のアッカド人とウル人はドラヴィダ人に 聖牛思想を教え、牛首のバァル神の崇拝を強制しました。 それまで、ドラヴィダ人の祭神は【ヤオロチ】即ち蛇神であり、シュメールではサルゴン時代 からバァル神とディルムン説話が生まれていたのです。したがって、これ以降インダスでは 聖蛇信仰と聖牛信仰が併存しました。 アッカド人とウル人はグート人に圧迫され、前2000年以前に、チベットから黄河沿いに 下降して彩陶文化を残すのですがウル人はチベットのホータンを中心として月氏となります。 月氏の前身はカッシート人といい、そのカッシートの前身がウル人だったのではと考えます。 アナトリアで自然銅を加工する技術を最初に発見した人々が牛頭信仰のウル人であり、 銅、後には錫や金・銀・鉄を探鉱するために世界に散り、あらゆる民族の基になったのでは ないか? なぜなら、彼らウル人の痕跡が北方ヨーロッパ各地にも残っているからです。 シベリアや東アジア、アメリカ大陸にも鉱山を探しに移動しています。 彼らの鉱物を需要していたのが、メソポタミアの広大な農場でありエジプト王朝だったらしい。 インドは、それらを円滑に行うためのコンビナートであり、精神性を高め 民族の宇宙観を極めていったスピリチュアルな聖地だったのではないかと思うのです。 ウル人は、月氏であり、サカ族になり、倭人の中心的存在であったと考えます。 サルゴンの後、リムシュ→マニシュトス→ナラムシンが継承します。 【ウル第三王朝】BC 2190~2005 【前期イシン王朝】BC 2017~1794 征服された後、エジプトに逃れ、ヒクソス国家をたてた後、再びカナンの地に逃れ、 エブス人となり、その地でユダヤ人に出会いました。 メソポタミアでアラム族のイシン本国が亡び、アッシリアが栄え、中国大陸に支配が及ぶと 中国のアラム族も圧迫され、南湾の凌河流域に後退して箕子朝鮮を建てました。 イリのアルタイは、シルクロードで一番の金山でしたので、アラム人たちは此処を根拠に 決めました。この人々の金姓は、ここから始ります。 タクラマカン砂漠の北部、イッシク・クル湖からクチャを経て、カラシャール、トルファンに かけての地帯が箕子(シン王の従兄)またはシウ殷の故地でした。 砂漠の南部、ホータンからチェルチェンを経てロプ湖畔の楼蘭に至る地帯が 辰国=ウガヤ王朝の故地になります。 この後、アッシリアに抵抗して亡命した海の国カルデラ人(サカ族)が 西方のアラル海とアム河・シル河、両河に挟まれた原野地帯に扶余を建国し 王家は昔姓でサカ族の王を称し、王号を【シウスサカ】といいました。 月氏族で朴姓のアメニギ氏が辰国をたてて三国が擁立しました。 ヒンドゥークシュ山中に源を発し中央アジアのアラル海に注ぐアム・ダリア大河流域には かつてバクトリア王国が存在していました。この国はBC4世紀後半のアレキサンダー大王 の東方遠征に伴ってつくられたギリシア人の植民国家でした。 アレキサンダーの死後はセレウコス朝(シリア)、マウリア朝(インド) アルサケス朝パルティア(イラン)などの手に委ねられましたが、最後はBC145年頃、 北方から侵入してきた遊牧騎馬民族のスキタイ(サカ)によって滅ぼされました。 このスキタイ(サカ)は、かつて中国西北部の河西回廊から敦煌にかけて勇躍していた 月氏(大月氏)のことですが、後にガンダーラからインドへと進出したクシャン族であった とも言われています。 そのクシャン族がタリバンによって破壊されたバーミアンの大石仏を造営したのです。 アショカ王の説話は彼らサカ族の扶余人が、コータンを支配するアメニギ氏(アッカドの末裔) 系の月氏を憚って、サマルカンド南方のバクトリアに建国した事実を示します。 BC256年、バクトリア知事ディオドトスが、クーデターによって政権を奪い、 グレコバクトリア(大秦国・大夏国)を建て、ディオドトス1世と称しました。 BC246年、ディオドトスは、バクトリアの統治を2世(胡亥)に任せ、自らは精強な ペルシア軍団を率いて中国に至り、秦の始皇帝と名のり、諸国制覇に乗り出しました。 BC239年、秦始皇帝の余波を受けて、申国(大夫餘)にいたウガヤ42代・解慕漱(かいぼそ) が東北(満州)へ逃れ、松花江河畔の農安に北扶余王朝(前期王朝)を建て王となりました。 同じ頃、マレー海峡のヤーヴァ・ドヴィーバの移民たちが沖縄から移って建てていた 中山国が滅び、国王・綽(しゃく)が蜀へ移されたため、遺民たちは遼東へ移動し、 原ツングース(韓人)を従えて箕子朝鮮(智淮氏燕ちえしえん)を再興しました。 BC221年、ディオドトス1世、秦王政が中国を統一して秦帝国を建て、始皇帝と称します。 BC213年、秦始皇帝(ディオドトス1世)による焚書坑儒事件が起こります。 箕子朝鮮の上将卓が帯方(月支)に辰国を建て、秦の亡命者は、慶州に馬韓の分国をたて 辰韓と称しました。この時、箕子朝鮮系の馬韓人に従って渡来した倭人が【北倭】でした。 北倭と秦の亡命者は、エビス王から鳥栖河と背振山脈の間の地、吉野ヶ里を譲られ倭奴国 (秦王国)としますが、後に神武と公孫氏に敗れ、出雲経由で大和地方に【秦王国】を建てます。 馬韓人に領土を与えたという【東表国王クルタシロス】が【倭面土国王師升】のことです。 このシロス王は駕洛史では金官国の【首露王】になり、新羅史では金氏の祖の首留 日本史では孝元天皇になっています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/03/21 11:21:37 AM
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