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studio PINE SQUARE

studio PINE SQUARE

フロントエンジンの時代(1950-1957)

 今から73年前の1950年5月13日、シルバーストン・サーキットで開催されたイギリスグランプリからF1世界選手権は始まりました。フロントにエンジンを積んで、現代からは考えられないくらい細いタイヤを履いたF1マシンには安全装備などありません。ドライバーは常に死と隣り合わせだったからこそ、一番速く(生きて)完走したドライバーは勇者と称えられ、年間を通じて一番速かったドライバーには世界王者の称号が与えられたのです。参加車輛はほぼアルファロメオやマセラティといった市販車を販売する自動車メーカーのレーシングカーであり、レース専用車両を設計開発するコンストラクターという発想はまだない時代です。1950年から数年は欧州大陸系自動車メーカーが強く、チャンピオンの駆ったマシンもほぼイタリアンレッドという時代です。

​1950年​
ドライバーズチャンピオン:ジュセッペ・ファリーナ(伊)



デアゴスティーニF1マシンコレクション1/43
アルファロメオ 158 直列8気筒1.5リッタースーパーチャージャー付エンジン
1950年イギリスGP 優勝
#2 ジュセッペ・ファリーナ

 完走数と優勝回数は同僚でランキング2位のファン・マヌエル・ファンジオと同数(4完走3優勝)でしたが、残るひとつの戦績が明暗を分けました(ファリーナ:3位表彰台、ファンジオ:6位入賞)

​1951年​
ドライバーズチャンピオン:ファン・マヌエル・ファンジオ(亜)



ブルム1/43
アルファロメオ 159 直列8気筒1.5リッタースーパーチャージャー付エンジン
1951年ベルギーGP 9位
#2 ファン・マヌエル・ファンジオ

 前年最終戦で苦汁を飲んだファンジオが捲土重来。しかしながらシーズン後半に自然吸気4.5リッターV12エンジン搭載のフェラーリを駆るアルベルト・アスカリに追撃されるも、最終戦のタイヤ選択に失敗して自滅、なんとか逃げ切ることが出来ました。因みにエンツォ・フェラーリの有名な「私は母親を殺してしまった」はこの年のイギリスGPでアルファロメオを破り初優勝した際の言葉です。
設計初年度から13年経ったマシンは年次改良も限界でしたが、新型車を開発する資金的余裕のなかったアルファロメオはこの年限りでF1から撤退しました。

​1952年​
ドライバーズチャンピオン:アルベルト・アスカリ(伊)



アシェット公式フェラーリF1&レーシングコレクション1/43
フェラーリ 500F2 直列4気筒2リッター自然吸気エンジン
1952年ドイツGP 優勝
#101 アルベルト・アスカリ

 フェラーリはF1マシンを保有していましたが、屋台骨だったアルファロメオがF1から撤退して参加台数不足が懸念されたため、この年の世界選手権はF2マシン(2リッター自然吸気エンジン)で争われることになりました。都合が悪くなるとゴールをずらすのはF1世界の常識です(笑)。フェラーリは元々V12エンジンの166F2と212F2を有していましたが、わざわざ4気筒エンジンを新規設計し、これを搭載した500F2とアルベルト・アスカリは8戦6勝と圧勝しました。

​1953年​
ドライバーズチャンピオン:アルベルト・アスカリ(伊)ー2度目



ブルム1/43
フェラーリ 500 F2 直列4気筒2リッター自然吸気エンジン
1953年イギリスGP 優勝
#5 アルベルト・アスカリ

 この年もフェラーリの優位は揺るがず、不参加のインディ500を除く8レースで5勝しました。
 この53年型500F2は、ブルムが過去販売していた商品にドライバーフィギュアを追加して再販したものですが、クルマ本体は52年型モデルを流用していると思われます。53年型はノーズが延長されていてラジエーターグリル開口面積も小さくなっている気がします。またドライバーが若干スケールオーバーな感じもしますが、当時の画像などを見てみるとこれで正しいのかも知れません。

1954年
ドライバーズチャンピオン:ファン・マヌエル・ファンジオ(亜)ー2度目



エディションズアトラス1/43
メルセデス W196 直列8気筒2.5リッター自然吸気エンジン
1954年スイスGP 優勝
#4 ファン・マヌエル・ファンジオ

 52年の王者獲得後、アルファロメオの撤退や自身の事故など運気の性ッていたファンジオが復活。シーズン序盤、前年も所属していたマセラティで2勝したのち、開発遅れで欠場していたメルセデスへ電撃移籍して6戦4勝を挙げ、二度目のタイトルを奪取しました。
W196というとシャシーとタイヤをすっぽり覆う流線形ボディ(ストリームライン)を思い浮かべますが、実際のところ図体が大きくなってツイスティなコースでは取り回しに苦労して、最初の2戦こそストリームラインでしたが、その後はオープンホイール・ボディで走ることが多かったのです。

1955年
ドライバーズチャンピオン:ファン・マヌエル・ファンジオ(亜)ー3度目



デアゴスティーニF1マシンコレクション1/43
メルセデス W196 ストリームライン 直列8気筒2.5リッター自然吸気エンジン
1955年イタリアGP 優勝
#18 ファン・マヌエル・ファンジオ

 前年は途中参戦だったにも関わらずグランプリを席巻したW196の優位性は翌55年も変わらず、「世界」選手権という名目を保つだけの目的で日程に加え、実際には欧州人は誰も見向きもしなかったインディ500を除いた6戦で5勝(うちファンジオが4勝)と再び圧勝での戴冠でした。
この年はシーズン殆どをオープンホイール・ボディで戦い、イタリアGPが唯一ストリームラインでした。そういう意味で、このモデル化は「デアゴスティーニわかってるねぇ!」と思います(笑)。

​1956年​
ドライバーズチャンピオン:ファン・マヌエル・ファンジオ(亜)ー4度目



アシェット公式フェラーリF1コレクション1/43
フェラーリ D50 V型8気筒2.5リッター自然吸気エンジン
1956年ドイツGP 優勝
#1 ファン・マヌエル・ファンジオ

  55年を最後にメルセデスが撤退してしまったため、フェラーリ入りしたファンジオがマセラティ駆る元同僚スターリング・モスの追撃から逃げきって4度目の王座に輝きましたが、開幕戦と最終戦で自身のマシンがリタイア後に同僚のマシンに乗り換えて(当時のルールでは認められていた)のポイント加算であったため、薄氷の勝利だったと言えるかもしれません。
ちなみにメルセデスの撤退は、ル・マンの大惨事が原因と思われがちですが、確かにそこに起因してモータースポーツ活動を停止はしましたが、F1に限ってはそれよりも前に「市販車開発にリソースを注ぐために今年限り」を明言していましたので、仮にル・マンの事故がなかったとしても撤退していました。
 D50は、元々ランチアが設計開発したマシンでしたが、ランチアのF1撤退に伴って6台のD50および資材一式がフェラーリに譲渡されて、それをフェラーリがモディファイしたものです。

​1957年​
ドライバーズチャンピオン:ファン・マヌエル・ファンジオ(亜)ー5度目



デアゴスティーニF1マシンコレクション1/43
マセラティ 250F 直列6気筒2.5リッター自然吸気エンジン
1957年モナコGP 優勝
#32 ファン・マヌエル・ファンジオ

 フェラーリで4度目のタイトルを手にしたファンジオですが、エンツォ御大との関係が悪化して(ファンジオは誰もが認める紳士ということから、アクの強いエンツォがきっと悪いのでしょう)たった1年でチームを去り、古巣マセラティに移籍します。マセラティの主力マシンは4年落ちの250Fでしたが、ファンジオは4勝を挙げました。一方のフェラーリのほうはというとD50を大幅改造した801Fが不発でシーズン未勝利に終わり、結果的にファンジオの移籍は大正解ということになりました。ニュルブルクリンクで開催されたドイツGPではピットストップのミスで、ワン・ツーで走るフェラーリ勢から38秒もあったギャップを鬼神の如き追い上げでひっくり返しての大逆転勝利。これがファンジオのグランプリ最後の勝利となり、翌年は母国アルゼンチンとフランスの2戦だけスポット参戦しフランスGP後にF1から引退しました。


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