万雑541_大伴氏の系譜で万葉集に歌がある人(大伴家持_31)
万雑541_大伴氏の系譜で万葉集に歌がある人(大伴家持_31)次は、家持が藤原久須麻呂に贈った歌5首(786~790)と久須麻呂が家持に贈った歌2首(791,792)です。藤原久須麻呂は藤原仲麻呂の次男。藤原久須麻呂が家持のまだ幼い娘に求婚してきたのを断わる歌;786_「春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも」※_「春雨はますますしきりに降っているのに、梅の花はまだ咲かなく。木が若すぎるからだろうか」と歌っています。自分の娘を「梅の花」に譬えて、娘はまだ若いと伝えた。787_「夢のごと思ほゆるかもはしきやし君が使ひのまねく通へば」※_「夢のように信じがたく思われます。親愛なあなたからのお使いが頻繁に通ってくるので」と歌っています。788_「うら若み花咲きがたき梅を植ゑて人の言しみ思ひそ我がする」※_「まだ若くて花を咲かせるに至らない梅の木を植えて、人の噂がうるさいので、思い悩んでいます」と歌っています。789_「心ぐく思ほゆるかも春霞たなびく時に言の通へば」※_「心晴れず切ない思いがします。春霞のたなびいている時にお便りが来ると」と歌っています。790_「春風の音にし出なばありさりて今ならずとも君がまにまに」※_「(春風の)噂になり世間に聞こえるようになったら、今すぐでなくてもよい、あなたの思し召しのままに」と歌っています。藤原久須麻呂が家持に贈った歌2首です。誠実に求婚していると伝える歌;791_「奥山の岩陰に生ふる菅に根のねもころ我も相思はざれや」※_「奥山の岩陰に生えている菅の根のように、私も深く心をこめて思わないことがあろうか」と歌っています。家持の歌786に答えた歌;792_「春雨を待つとにしあらし我がやどび若木の梅もいまだ含めり」※_「春雨を待つということらしい。我が家の庭の若木の梅もまだ蕾のままだ」と歌っています。家持のお断りを久須麻呂は一応了承したようです。ここまでで巻第四まで進みました。次は巻第六に進みます。 備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_天平12年8月29日、藤原博嗣の乱※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(749年)に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上