花筐(はながたみ)継体王朝 その 18
勾大兄皇子は三国に在住以来から、男大迹王より大兄皇子は呼び名もそのまま大兄(おいね・・兄者)、高田皇子は弟(いろと)と呼ばれ、「おいねさま」「いろとさま」と臣下からも親しみを込めて呼ばれていたのだろう。男大迹王(おうどおう)も「おとどさま」・・北陸弁で“おとど”は父の意、家族間の呼称そのままで、宮中でも北陸弁丸出しで通じていたのではあるまいか・・・それは兎も角。 日本書紀によれば、(531年)2月7日 男大迹王が身罷る寸前の生前退位により、この時六十四歳の大兄皇子は男大迹王御見舞いの大勢の臣下の見守るなか、直ちに帝に即位の儀式が取り行われ、それを見届けた後、安心して眠るが如く崩御された。・・大和臣連の万々一の変節を恐れる 細心の男大迹王のお心配りは最後まで正にお見事。 即日、大伴金村を大連とし、物部麁鹿火(あらかい)を大連とすることは、共に元の通りであった。治世元年春、都を大和の国の勾の金橋に遷した。よってこれより勾の文字を宮の名とした。 妃の春日山田皇女を皇后とし、大伴金村大連は帝に3月6日、別に大和の氏より三人の妃を立てた。許勢男人(こせのおひと)大臣の娘の紗手媛(さてひめ)、その妹の香香有媛(かかりひめ)、物部木蓮子(いたび)大連の娘の宅媛(やかひめ)の三人がそれである。 日本書紀に記載ある如く、その治世は 毎年穀物が良く稔り、三韓等 辺境の憂いもなく。万民は生業に安んじ飢餓もない。天皇の仁慈は全土に広がり、天子を誉める声は天地に充満し、内外平穏で国家は富み栄えた。ゆえに 治世安閑2年春1月5日 詔して曰く「朕の喜びは大変大きい。人々に酒を賜り、五日間盛大な宴を催し、天下こぞって喜びを交わすがよい」と孤高な帝ではあったが、先の継体帝をそれこそ身を挺して良く補佐し奉り、民を思い世も平和で、天子らしい 立ち居振る舞いであったと言われる。 御年七十歳の治世 安閑5年(535年)冬12月17日、帝は勾の金橋宮で崩御した。 この月、天皇を河内の古市高屋丘陵(ふるいちのたかやのおかのみささぎ)(大阪府羽曳野市)に葬った。帝の思し召しで(表向き)天皇の妹として、神前(かんざき)皇女もその後、合葬された。 (筆者注1) 安閑天皇古市高屋丘陵に記載ある神前皇女墓 の立札 その折、神崎皇女の誇りの源であろう男大迹王より下賜された ペルシャ伝来の 白瑠璃の玉椀と、義母にあたる目子媛から形見として頂いたお手製の花筐(はながたみ)を ご子息の蘇我稲目宿祢は 野辺の見送りに墓前にお託けになられたに違いあるまい・・・・ (筆者注2)陵の提は江戸期に一部 損壊し,ペルシャ硝子の玉椀が出土した事実は 「百舌鳥・古市古墳群」世界遺産登録決定その22 安閑天皇陵の謎 に筆者が 記入した如く、木製の花筐は永年の間に、当然朽ち果てたことであろうし、この話も筆者の推理の末 の旨お断りしておきます。然し もう一つのペルシャ硝子製玉椀は 代々天皇家に引き継がれ、第45代 聖武天皇伝来の宝物として正倉院に保管され 現代迄伝わっているのは紛れなき事実・・ ・・その間 如何なる物語があったのか、嫡子を設けぬまま、後々お亡くなりになられたであろう皇后春日山田皇女の陵は、古市高屋丘陵の南250mと程近くに、帝および神前(かんざき)皇女の陵を見守り、お控えするが如く安閑天皇皇后陵として祀られている。然し第27代 安閑天皇皇后としてのお立場で 第26代 継体天皇皇后たる姉の手白香媛亡き後、広庭(ひろにわ)尊と先代 宣化天皇(高田皇子)の御子との皇位をめぐり弱気なご意見を宣う広庭(ひろにわ)尊をお諫めし、姉に成り代わり、叔母として 堂々その後見役を務め、第29代欽明天皇を誕生させた事は 特筆すべき事柄であろう・・・