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カテゴリ:歴史
治世五年(511年)10月 何かと手狭になった葛葉の宮は 事実上皇太子である勾大兄皇子(まがりのおいねのみこ)に東宮御所として与え、 男大迹王はその弟(いろと)高田皇子(たかたのみこ)を護衛も兼ねて供をさせ御幸し、皇居を新装なった筒城宮に遷都した。 (現在の京都府京田辺市多々羅附付近・・現在の同志社大学新校舎の程近くで、 勾大兄皇子は 豊彦王(とよひこのみこ)を伴い、神前(かんざき)姫 共々御礼に 此の折 白髪の翁、御年六十九歳の男大迹王と嫗(おうな)の如き目子媛をはじめ奉り、うら若き 手白香皇后と勾大兄皇子の妃 神前(かんざき)姫のお二方の母君も、平和そのものの皇室を演じておられた。 事実上、大伴・物部始め大和の豪族は 男大迹王と手白香皇后との皇子 広庭(ひろにわ)尊には、今だ御幼少でもあり、男大迹王の御子息 勾大兄皇子(この折五十四歳)・・(後の安閑天皇)、と一つ違いのその弟(いろと)高田皇子(たかたのみこ)・・(後の宣化天皇)までは、黙って日嗣を認める腹であった。 御歳を考えれば、逆らわずともいずれ、広庭(ひろにわ)尊に跡継ぎが期待できる訳なのだが、しかし・・、
それゆえに、広庭(ひろにわ)尊にとっては三歳年上の甥!にあたる勾大兄皇子
幕末の浮世絵師 月岡芳年 画「大伴金村大連」イメージ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 23, 2019 05:23:17 AM
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