幼児の私が見た戦後初期の羽幌町
先日、5月18日のこのブログ日記で、私は「一枚の写真」と題して臆面もなく家族写真を掲載し、その写真をめぐる1950年(昭和25年)から1954年ころまでの家族の物語と裏側にはりついている日本の戦後の歴史を粗述した。家族の物語は主に鉱山技師としての若き父の勤務状況をめぐって書いた。 しかし、戦後のこの時期、5歳前後だった私の記憶も、じつは敗戦国日本の状況を記憶していたことを、後年になって分かったのだ。現在、インターネットを媒体として多くの人が様々な情報を発信している。それらを頼って私は子どものころの記憶とその記憶された事象の意味を確認しようとしている。しかしながら、発信者の年齢がおそらく私よりずっと若いと推測され、また市公報のようなサイトであっても70年以上昔のこととなると情報はきわめて少ない。しかも終戦直後に一般市民が写真撮影することなど思いよらなかったかもしれない。 というわけで、昭和25年に5歳だった私が見たことが、終戦後の日本の一地方の何であったのかを、もういちど思い出しながらアトランダムに書いてみようと思う。 昭和23年頃から北海道羽幌町に進駐軍専用列車が何度か到着した。羽幌駅は私の家からそんなに遠くなかったので、私は駅前の通りに見に行った。そしてアメリカ兵に赤い表紙の小さな本をもらった。何が書かれてあるか知らないままに、私は茶箪笥の抽出に何冊も所持していた。この本、ないしは冊子がいかなるものか、現在も不明である。 もうすこし後だったと思うが、年上の子が、アメリカ兵に「ガム・チーン」と言ってガムをもらう、と聞いた。私は米兵にねだって本をもらったわけではない。米兵の方から、背囊から出して、私にくれたのだ。 いつであったかははっきりしないが、この進駐軍専用列車に、私たち家族はまちがって乗ってしまったことがある。 進駐軍列車に乗ってしまった私たちは、しかし米兵から注意されることもなかったようだ。私はデッキと車室との間に緑色の丈の長いカーテンがさがっていたのを憶えている。 祖母が一緒だったので、江差近傍の土橋から我家を訪問しての帰りだったかもしれない。母方の家は代々の僧侶。曽祖父顕月は、江差にあった東本願寺別院塔頭の、不慮の火災によって(松前藩御家騒動門昌庵事件)二百数十年間失われていた圓通寺を、土橋に再興した。曾祖父も祖父もすでに亡く、当時は祖母の長男である伯父がその圓通寺の住職だった。 ・・・たぶんその来宅のときだったと思うが、私は祖母にブリキのオートバイの玩具を買ってもらった。商品が何もないガランとした玩具屋の棚に、一台だけそのオートバイは飾られてあった。電池が入っていて豆電球のヘッドライトが一つ、小さなバーを倒すと点灯した。新式の玩具だった。私の三つの玩具の一つだ。 もう一つは、路傍で昼飯を食べていた人たちを気の毒がった両親が、我家で食事するように招き、普段のその礼にと私に贈ってくれた「いろは積木」。そして三つ目は、川上哲治選手と同じ色の子供用赤バット。母がシーチング(生成り木綿)の布でユニフォームを作ってくれた。ズボンの脇に赤いテープでラインを入れ、上着の胸にどこかで見つけてきたドラゴンのワッペンを縫い付けてあった。私はそのユニフォームを着て赤バットを持って得意になっていたが、じつのところ町には子どもの姿をほとんど見かけなかった。私はたった一人でバットを振り回していた。・・・ じつは、私たち家族は昭和27年ころにも再び進駐軍専用列車に間違って乗った。長野県に移転したあとで、母と私と弟だけだったと記憶する。接収した軽井沢の別荘へ行く将校専用列車だったかもしれない。夫人連れで、静かに笑いながら会話していた。母と私と弟は座席に座っていた。もちろん日本人は私たちだけだった。このときも何の注意もされず、差別もされず、ごく普通に、むしろ快適に旅行した。米軍の将校クラスは、夫人ともども、教養があったのだと思う。 このときのことは後に笑い話になった。私はアメリカ婦人のスカートからのびた素足の脛の裏側に茶色っぽい筋を見たのだ。私は母にそっと聞いた。「お母ちゃん、あの人の足のスジは描いたの?」すると母は、「そうかもしれないわね」・・・まるで素足のように透けているナイロンストッキングを母も見たことがなかったのだ。脛の裏側の「スジ」は、シームだった。 1949年(昭和24年)からGHQの協力で吉田茂政権は「レッド・パージ(赤狩り)」を強力に押し進めた。当初、公的関係者が主な標的であったが、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると民間人にも狙いがつけられるようになった。 これをめぐる我家の様子と私の記憶については先日書いた。そして同年11月2日に父はおよそ4年間勤務した羽幌町役場を退職して以前の鉱山技師に復職した。 父がまだ役場勤務していたころ、牧畜農家に頼まれて綿羊を飼う資金を出し、預け飼育をしていた。私は一度父に連れられて牧場に見に行った。しかし父はすぐに役場を退職し、一家は長野県に引っ越した。羊は牧畜農家に無償であげた。何年か後、一家が福島県八総鉱山に移ってから、牧畜農家から一反の布が送られてきた。贈った綿羊から刈り取った毛で織った布だという。ブルーグリーンに染色された見事なウールだった。父は会津若松の北小路町にあった、我家に出入りの紳士服仕立屋にオーバーコートをつくらせた。 羽幌町では家が3軒変った。伊豆の土肥から移転した当初は羽幌町役場近くの町長だった伯父の家。次にその向かいの家。この家で弟が生まれた。昭和23年である。そして町営運動場のすぐそばの新築の家である。この家の裏庭側にせり出た座敷の板壁に一間四方ほどの鶏小屋を据え付け、数羽の鶏を飼った。採卵して食糧の足しにするためであった。 裁判所の近くの松林のわきに畑を借りて、ジャガイモを作っていたことも思い出す。 三番目の家に移ってから、どういう経緯なのか私は知らないが、役場の小使さんを下宿させていた。下宿代などは受け取っていなかった。高校生くらいの少年だった。黒い詰襟服で勤めていた。私はその少年が運転する自転車の幼児椅子に乗せてもらっていて、町営運動場の方から来て家まで20mくらいのところで、裸足の右親指を車輪のなかに突っ込んで大怪我したことがある。肌色の粉薬を塗り包帯で固定したのを憶えている。外地から引揚げてきた鍼灸師の資格などををもつ伯父が、まだ施療院を開く前だったが、白いホーロー引きの小型機器を携えてやはり我家に一時的に同居してい、その伯父が治療してくれた。・・・この伯父は、戦災で火傷を負った人のケロイドを治療し、後々まで感謝されていた。 昭和24年9月22日、羽幌町南3条1丁目の羽幌劇場から出火した。煙草の残り火が原因といわれた。17棟全21世帯が被災する大火である。この火事を私は家の座敷の窓から見た。いや、見ようとしたが、父や伯父や小使少年が窓を占領してしまい、私は三人の大人のお尻で地団駄踏んでいたのである。 現在、インターネットに『消えた映画館の記憶』と題するサイトがある。日本全国のいまは廃業廃館した映画館の情報を網羅しようという、熱意にあふれた見事なサイトである。すべての映画館の詳しい館史記録があるのでもないらしく、開館年や閉館年には推測もまじっている。 羽幌劇場についても記載がある。しかしながらこの劇場が出火元であった昭和24年9月22日の大火災については全く言及されていない。開館年が1947年と1950年と二度あったことが記されているが、この二度の理由が、じつは火災のためであり、その後に再建されたのである。 1950年に再建され、何月何日に開業したかは私もはっきり言えないが、しかしながら私は、たぶん開業記念の興行だった舞台を見ている。能『土蜘蛛』を翻案した舞踊劇と、昭和14年に梅木三郎作詞・佐々木俊一作曲の流行歌『長崎物語』を翻案し、芝居にしたものである。私はマホガニー色のニスの匂いも真新しい二階最前列の席で見た。土蜘蛛の巣をかける千筋糸の仕掛けが目に焼き付いた。また、「赤い花なら曼珠沙華 オランダ屋敷に雨が降る 泣いて別れたジャガタラお春 未練の出船に ああ鐘が鳴る らら鐘が鳴る」という歌を、その場で覚えてしまった(現在でも歌える) さらに翌1951年6月4日、羽幌港祭が挙行され、羽幌劇場において洋裁学校主催の『ニューモード・ファッションショー』が開催された。私はこのショーにモデルとして出演した。洋裁学校から子ども服を作らせてほしいと言ってきて、母が承知したのだ。お隣の同年の女の子も一緒だった。二人は「お手てつないで」の曲にあわせてステージに登場した。 じつは子どもは私と隣の家の女の子と、たった二人だけだった。上に述べたとおり、町に私ぐらいの年齢の子どもがいなかったのである。父親になるはずの男がほとんどいなかったのだと思う。昭和20年を境にその前後1,2年の間に、戦地から復員していなければ、私と同年齢くらいの子どもの父親にはなれない。壮年の男の働き手が少なかったからであろう、父は頼まれて鰊漁の手伝いに小型発動機船に乗りこんだこともあった。 しかし徐々にではあるが結婚も行われるようになっていたのだと思う。ある時、私は母に連れられて郵便局に行った。母が用事をすませている間、私は出入り口に立って通りを見ていた。通りの向かい側を花嫁行列がやってきた。文金高島田で、綺麗だった。用事を済ませて出てきた母に、私は言った。「ボクにもきれいなお嫁さんをカッテ(買って)ちょうだい!」 (私は民生委員だったときに、周囲に子どもがいなかった幼年時代の話をしたことがある。すると、私より若いには違いないが年輩の婦人が、「お母さんが子どもたちを見つけてくれそうなものだけど」と言った。私は一瞬呆れてしまった。この婦人の父親だって応召し、命からがら復員し、そして子どもが生まれ、戦後を生き抜いた。しかしこの婦人は、今は年取っていても、あのころはまったくの子どもで社会の何事も見てはいなかったのだ。ああ、そういうものか、と私は口を噤んだのだった。) 洋裁学校主催の『ニューモード・ファッションショー』にも時代は反映している。戦後復興の一つのおおきな運動であった、杉野芳子氏による洋裁学校「ドレスメーカー女学院」の開校である。「ドレメ」と称して、この運動は全国にひろがって行った。私がファッションモデルとなった羽幌町の洋裁学校もまさにその流れの中にあった。 前述の羽幌劇場の開業時の演目について、私がいまだに不明としていることがある。それはGHQが徹底しておこなった検閲の問題だ。検閲はラジオ放送、新聞、映画、小説や詩、絵画、漫画、書籍、雑誌、教科書はもちろん、伝統芸能の能や歌舞伎をふくむあらゆる舞台芸術や流行歌等の表現に及んだ。規制がややゆるくなったのは1949年ころからである。羽幌劇場の開業記念興行は1950年なので、おそらく検閲はゆるくなっていたのであろう。もし厳格な検閲がおこなわれていたなら、日本の侵略的軍国主義を象徴すると解釈されかねない魔物征伐の物語である『土蜘蛛』や、日本と同盟関係にあったイタリア人とその妾である日本女性お春との悲恋物語『長崎物語』が、認可されなかったのではあるまいか。・・・この上演に関する状況はまったく不明だ。 古来の伝統といえば、仏教行事である釈迦聖誕祭『花祭り』が、羽幌町で1948年(昭和23年)に開催されている。このとき満2歳だった私は、御稚児さんとして、御坊様に手を引かれながら行列に参加した。歩きながら私は眠ってしまったので御坊様が手を引いたのだと、母が言っていた。在来宗教に厳格だったらしいGHQだが、こんな純然たる仏教行事は検閲しなかったのだろうか。 さらに、大相撲は戦中戦後を通しておこなわれていた。多くの力士が応召した。戦後は昭和20年12月に国技館が進駐軍に接収されて本場所はできなかったが、それにかわる場所でつないだ。相撲協会はよくGHQと折衝し、多難を克服していた。そのような状況で、じつは羽幌町で巡業相撲が行われたのである。 私はその公式記録を探せないでいるが、昭和23年ではなかっただろうか。二所ノ関部屋と高砂部屋の合同巡業だったのではないかと思われる。その頃、この二つの部屋がしばしば合同で巡業した記録が残っている。 羽幌町の巡業で、我家に使者がやってきて、所蔵する弓を弓取式のために貸してほしいというのだった。もちろん断る理由もないので、父は即座に応諾し、弓を貸した。現在は相撲協会が自前の弓を所持しているのであろう。戦後間もなくのその当時、そうした式用の弓はどうなっていたのだろう。GHQが武器とみなしていたのだろうか。 それはともかく、そのとき我家の弓で弓取式をおこなったのが若き日の若ノ花だった。 弓取式は元々は千秋楽のみの行事であった。現在のように毎日行うようになったのは、昭和25年5月場所からだと物の本にある。そしてそれを行う力士は幕下ときまっているらしい。 羽幌町の巡業は昭和23年と上述したのは、弓取式を幕下の力士が行うということから推測した。 若ノ花幹士(本名:勝治)は、昭和21年11月に初土俵。そしてわずか3年半後の昭和24年5月場所で十両に昇進している。ということは、我家が伊豆の土肥から羽幌町に転居したのが昭和22年6月で、私は2歳。この年は除かなければならないので、残るは昭和23年だけということになる。 私のおぼろげな記憶にあるのは、弓取式の若ノ花のこととともに、その若ノ花に稽古をつけているという力道山という力士のことだ。 雑誌の検閲をめぐって思い出すのだが、1949年(昭和24年)に集英社が少年少女雑誌『おもしろブック』を創刊した。私は創刊号こそ読んでいないが、すぐに購読者となった。発刊されると本屋が届けてくれた。私は上述の「いろは積木」によってすでに文字が読めたので、山川惣治作「少年王者」に夢中だった。アメンホテップなどという登場人物の名前を74年後の現在でも覚えている。 集英社が現在インターネットで発信している「集英社小史」に、『おもしろブック』創刊号の画像が掲載されていて、その表紙に「少年王者」の文字が刷られている。この雑誌の’目玉読み物’だったことがわかる。 私がいま、なぜ検閲を思い巡らすかといえば、この「少年王者」はアフリカ冒険物語であるが、蛮族としての「土人」表現があり、創刊直前までの検閲が厳格だったころにはあるいは認可されなかったかもしれないと思うのである。 「おもしろブック」という誌名が左から右へと書かれていることにも、あたらしい時代の反映を注目してよいだろう。それまでの誌名は右から左に読むものがほとんどだった。 私がこの雑誌の読者だったのは小学3年生までで、八総鉱山時代は田島町の本屋が毎月届けてくれた。その後は弟に引き継がれたので、あいかわらず毎月届いていた。弟に引き継がれたとはいえ、1954年ころから連載がはじまった杉浦茂の漫画「猿飛佐助」は大好きだった。猿飛佐助の顔が、丸いおにぎりを少し潰したようで、まんまるな目をしていた影像がいまも脳裏に浮かんで来る。はたして、その記憶が正しいかどうか。この漫画で私は真田十勇士(フィクションであるが)の名前をおぼえた。猿飛佐助、霧隠才蔵、三好青海入道(兄)、三好伊左入道(弟)、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎・・・ハハハ、いまでも覚えている。 私が長野県川上村で小学校に入学した1952年(昭和27年)以降は、私の購読誌は「おもしろブック」のほかに誠文堂新光社の『子供の科学』が加わった。 『子供の科学』の刊行史は長い。創刊は1924年(大正13年)である。終戦直後の1945年8月15日、退任を控えた文部大臣は、つい数日前までの軍国教育から手のひらを反して、「科学力と精神力」を高めることを国民に求めるメッセージを残した。以後、日本の学校教育は、新たに就任した文部大臣前田多門のもとで基礎科学に力を注ぐ方針がとられた。 小学校に入学した私が『子供の科学』を購読するようになったのは、そのような時代思潮に一致してはいたが、しかしながら私が文部大臣の教育方針など知るはずもなかった。私の自然観察への関心等が『子供の科学』購読を引き寄せたのであり、両親や担任教師が私の関心事を察知したからだった。日本のテレヴィジョン開発の初期動向も、私は『子供の科学』で知った。 「集英社小史」より 誌名の下に「少年王者」とある。 1950年(昭和25年)7月15日から8月23日まで旭川市で旭川開拓60周年を記念して「北海道開発大博覧会」が常磐公園や石狩川河畔、北海道神社を会場にして開催された。主催は北海道庁と旭川市。後援は、総理府をはじめとするすべての行政省、日本国有鉄道、日本交通公社、日本放送協会、日本商工会議所、全日本観光連盟、日本貿易会だった。開拓60周年記念と銘打っていたが、戦後復興にかける大々的な催しだった。北海道の全市がパビリオンを設営し、全都道府県が出展し、アメリカ館のパビリオンもあった。あらゆる日本の産業館があり、美術館があり、アメリカ図書館の展示もあった。 私は両親につれられて見に行った。忘れられないのは、動物園(東京都多摩動物園が動物をつれてきていた)や「おさるの電車」、そして「子どもの国」の「飛行塔」や「魔法の家」。私は「魔法の家」でベンチに座ったまま、閉じられた部屋が逆さまになった恐怖と、そのときの室内に起こった叫び声や影像を78歳のいまでも思い出す。 ウィキペディアによれば、この博覧会の入場者数は514,309人であった。大人1名の入場料が前売り100円、当日120円、子ども当日60円だったというから、当時としては高額であった。 私は、当時の羽幌町の地図があれば、いまならまだ記憶が抜けていないので、もうすこし街の様子を書けるのだが、と思っている。しかし軍事的な問題からなのだろうか、戦中戦後数年間の町の詳細な地図は作成されなかったのだろうか。見つからない。1948年(昭和23年)4月 私2歳11ヶ月羽幌町の花祭り 寺院の庭で(この寺院はどこだろう? 金銅の釈迦誕生仏があった。 甘茶を掛けたおぼえがある。) 1951年(昭和26年)6月9日 私6歳 羽幌港祭り 羽幌劇場における 「ファッション・ショー」に出演後