この日記を2,3日休んでいたが、この間に、私が中学・高校時代をすごした会津若松市を42年ぶりに訪ねてきた。中学校の新聞委員会OB・OG12人が、顧問だった先生の喜寿を祝う会を催したのだ。私は出席した12人にも42年ぶりに会い、先生に連絡がついたのも2年前のことだった。
なぜこんな長い年月、私はこの町に音沙汰無しで来たかといえば、もともとこの町に一切の係累はなく、ただ勉学のために自ら望んで12才から17才までただひとりきりで暮していたのだ。昭和33年3月から39年3月までである。
だから、大学入学と同時に東京へ去ってしまってからは、訪ねるよすががないまま、いつのまにか42年経ってしまったのである。
私は画家修行にあけくれて、実際昔のことを思い出す暇さえなかった。いちども思い出したことがなかったのだ。とにかく前進しなければならなかったので、もしかしたら過去をふりかえることを自分自身で無意識のうちに禁じていたのかもしれない。そして、以前に書いたけれども、60才になったとたん、いままで思いもしなかったネットワークができて、自分でもなんとなく昔の話をするようになった。こんどの訪問もそういうもろもろの新しく(いや、あらためてと言うべきか)できた連絡網のひとつの帰結だった。
先生とはこの2年間、空白の消息をいそいで埋めるように、お互いの資料を交換してきた。お互いにもう何事も急がなければならないのだ。画集やマスコミ記事や、論文掲載誌や、英米で刊行された人名録などごっそり送り、先生もまた雑誌や新聞記事や、活動記録や、はては御自身の詳細な病状記録まで送ってくださった。「40年間、貴方のことをずっと探していたんだ。ここと思うところに手紙を出しても、もう住んでいないと返されてくる。中学時代は小さくてひょろひょろしていたから、もしかしたら亡くなったかもしんねと考えたりもしていた」と。
「今の写真をみると、ガッシリして、これじゃ街でバッタリ遭ってもわかんねな」
「先生のお声は昔とまるでお変わりありませんね。一気に中学生に逆戻りしてしまいました」
と、これは最初の電話での会話だ。
昨日、夕方帰京の時間まで、先生のお宅でおしゃべりしていた。
「昔からちょっと変な子だったが、やっぱり、こんな変な絵を描く画家になっていたとは。いやいやたまげた、すごいすごい」
私の送った画集などを専用らしいバッグにつめて、それを奥さんにもってこさせてテーブルのそばに置いてらした。
「美術のI先生には間にあわなかった。亡くなってしまった。見せたら喜んだべ」
遊卵画廊のインタヴューでもこたえているが、この町ですごした孤独のなぐさめに美術が私のこころへ入ってきた。I先生は私が仏教美術史をひとりで勉強していたのを御存知だった。白鳳仏の杏仁形の眼についておしえてくださったのはI先生だった。また校舎内の階段踊り場にかける一間四方の絵の下絵を描くように私に命じたのもI先生だった。私は美術部でなかったけれど、私の指示にもとづいて美術部員たちが手分けして彩色した。巨大な人間の顔を半分、デザイン的にデフォルメし、涙の池や花々にうもれていたと記憶している。卒業後も何年間かしらないけれど、同じ場所にかけられていたらしい。
そのI先生のことを、先生はおっしゃったのだった。
「それでは時間が来ましたので、これで帰ります」
「そうかい。帰るかい」
「お元気で」
「あと2年は生きなければなんね。貴方にパンフレットに絵を描いてもらうんだから」
先生は御自身が顧問をし、かつて私も先生にひっぱられて団員になった劇団の50周年パンフレットのことを言った。わたしは役者として3年間、その劇団の舞台にたっていたことがあるのだ。
「かならず私が表紙の絵を描き、デザインしますよ。御心配なく」
「ああ、よかった。頼んだよ」
こうして私はまた東京に帰ってきた。わずか3,4時間で行けるところが、私には42年間の距離だった。
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