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「山があれば 川がある ふるさとよ」
深尾須磨子女史のうたが、私の思いを消えてなくなったひとつの聚落へとはこんで行く。福島県南会津の山の奥深く、旧八総鉱山へと。
昭和28年から38年までのちょうど10年間、私の家族はそこに暮していた。人口およそ2000人。全員が鉱山社員とその家族という、その意味ではちょっと特異な聚落だった。しかしいまは跡形もない。かつてそこに豊かなひとの営みがあったと誰が想うだろう。
昭和31年(1956)、日本は国際連盟への加盟が承認され23年ぶりに国際社会の一員になった。これは国内の産業経済のシステムが大幅に変換することを意味した。保護貿易から自由化への転換。88%貿易自由化の効果は、1960年代にはいるとはっきり現われ、日本の第一次産業に目に見える打撃をあたえた。昭和35年(1960)の三井三池炭坑の大争議はまさにその象徴的事件だった。
福島県随一、国内でも有数の銅生産量を誇った八総鉱山も、国際競争の荒波のなかでついに1962年に事業縮小に踏み切り、やがて完全に閉山したのである。まるで一つ家族のように暮していた2000人のひとびとはそれぞれの新しい生活の地をもとめて分れていった。鉱業施設も、住宅街も、病院も、スーパーマーケットも、三カ所にあった共同浴場も、すべてが完全に跡形もなく取り壊されて丈高い草の茂みにうもれてしまった。ただひとつ私の母校である小学校の校舎だけが神奈川県の研修施設として買い取られ、山のなかにぽつんと残った。いまではそれも荒れ果てた。
私の家族がその地を去って42年が経った。私の旧友はいまでもときどき遠くからそこを訪れるのだという。いや、そういう人がたくさんいるらしいのだ。何がみんなを呼び寄せるのだろう。「山があれば川がある」、あの地。
ことしの3月に父が亡くなった。その5ヵ月ほど前に、まさか父が亡くなるとも思わずに私はふと思いたって、病床の父を駆り立てるようにして鉱山学的見地をまじえての八総鉱山について聞き書きをしたのである。鉱石蒐集家などの報告書に八総鉱山についての記述がないわけではないが、それはごく一般的なことにすぎない。八総鉱山の関係者でも鉱山の〈状態〉を知っていたのは3人ほどだったそうだ。
八総鉱山小学校の最後の卒業生もいまでは40歳を過ぎている。彼らに父親の仕事場のようすをおしえてあげたい気もする。そこで私はその聞き書きの一部をここに掲載することにした。八総鉱山にゆかりのある人がこのHPを見てくれることを願って。
福島県南会津郡田島町の荒海山系に属す旧八総鉱山は、おそらく古く戦前からあちらこちら探鉱がおこなわれていたと推測されるが、昭和25年(1950)から住友金属鉱山株式会社が探鉱を開始した。この現場作業に従事したのは、終戦後廃山になった北海道の北見鉱山にいた人たち、あるいは愛媛県の別子鉱山からの転勤者だった。探鉱にともなう建設事業は、北海建設株式会社が請け負っていた。
ちなみに住友金属鉱山株式会社の前身は別子鉱業株式会社と称した。これは昭和23年(1948)の財閥解体によって住友傘下の会社が名称変更せざるを得なかったためで、各地にあった旧住友系の鉱山は昭和26年6月頃までは別子鉱業株式会社を名のっていたのである。
昭和28年9月30日に私の父が長野県甲武信鉱山から八総鉱山に赴任したときは、まだ探鉱の最中であった。しかし900メートル掘れば〈ヒ〉に当ることが予想できた。〈ヒ〉というのは鉱床の心臓部のいうならば扉口である(註:金ヘンに通と書く)。
予想は的中した。昭和29年に大鉱床にぶつかったのである。住友金属鉱山としての探鉱開始からおよそ4年後のことだった。この4年という期間は、探鉱開始から採掘に到る鉱山業の一般的期間としては、ごく短かったと言ってよいだろう。
八総鉱山の特徴を鉱山学的にのべれば次のようだ。
鉱床は第3期層の新しい地層にある黒鉱型(金、銀、銅、鉛、亜鉛の混合体)交代鉱床である。第1回目のマグマが上昇してきて沈積し、白色粘土化する。その白色粘土層にそって第2回目のマグマが上昇し、やがて沈積する。これが当該鉱床の随伴鉱物で、黒鉱の場合はアイアンコーツ(赤鉄石英片岩)その他の鉱物である。さてこの第2回目の沈積にそって第3回目の黒鉱交代鉱床を形成することになるマグマが上昇してくるのである。
八総鉱山の場合、この第3回目のマグマが冷えた塊(マス)は、赤倉通洞の地点を底面として上方北西方向にやや傾いた登山帽子のようなかたちで存在するのである。それ以外は凝灰岩である。したがって八総鉱山の場合、鉱脈と言うのは正しくない。あくまでも塊(マス)なのである。そしてマスのてっぺんの一部が、山頂の地表に露頭としてあらわれていた。八総鉱山の発見のきっかけは、この露頭の発見であった。
さきに「第3期層のあたらしい地層」と述べたが、これは地球誕生の地質学的な表現である。住吉地区から事務所がある赤倉地区にはいる少し手前、道路の右側に安山岩の柱状節理がきれいに露出していたのを思い出す。これだけで八総がはるか地質学的古代の火山系のなかにあることがはっきり分る。
第3期層のあたらしい地層に黒鉱型交代鉱床が存在するのは、世界中で日本だけである。この点に関しては早くから学問的議論があったのであるが、それはともかく、日本においても福島県以北にしか存在しない。八総のほかには、花岡(秋田県)、小坂(秋田県)、安部城(青森県川内町)、余市(北海道)などが鉱山学的には同型である。
八総鉱山は登山帽子のかたちをしたマスのてっぺんがほぼ山頂に近い地点にあり、しかも底がないいきなりの心臓部にぶちあたったので、鉱山経営的には鉱山の寿命が容易に算出でき、投入人員等をきわめて効率的に計算できた。そのことは最盛期のみならず、後の事業縮小を経て閉山にいたる過程の人員整理についても適用可能な理屈だった。
さて、本格的に採掘が開始されると、会社の名称が〈住友金属鉱山株式会社八総鉱山〉から〈住友金属鉱山株式会社八総鉱業所〉と改称された。
(以下つづく)
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